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2012年5月10日 (木)

英国ヴィクトリア朝絵画の巨匠~ジョン・エヴァレット・ミレー展 (2)~両親の家のキリスト(大工の仕事場)

ミレイ初の宗教画として、発表され、当時の権威から激しく批判されたという。

Mireidaiku 大工である父親の仕事場で幼いイエス(画面中央)が手に釘を刺してしまうところを父親と聖アンナ(画面中央奥)が目にする。これは、後の磔刑になって掌に釘を打ち付けられることを暗示しているのか。幼い洗礼者ヨハネが水を持ってくる(画面右)。多分、後のキリストに洗礼を施すことを暗示しているのか。そして、中央では聖母マリアと幼いキリストが向い合い、跪く聖母の苦悶に満ちた仕種は、彼が祝福の手を挙げたときに聖母が不吉なものの予兆を嗅ぎ取ったことを意味するという。そして、当時の人々が批判したのは、この聖母が聖母のイメージとは程遠い、予兆に苦悶する憔悴しきった表情を浮かべていることで、聖なるものを理想化しないのは堕落したものと受け取られたためという。

後世から、この批判は的外れなどというのは後出しじゃんけんのようでフェアではないだろう。しかし、比較として、ムリーリョの「聖家族と幼い洗礼者聖ヨハネ」を見ると、バロック期のスペインのこの作品が似たような題材を扱っているが、こっちは理想化されていると見えるだろうか。そもそも、理想化というけれど、永遠の理想というのは理念としてあるように仮想している。しかし、実際にこのような絵画で理想的な女性を形にするという場合、時代の風俗の影響による変遷にさらされているのではないかと思う。もっと下世話な美女ということになれば、時代や地域によって、実際のこういう顔というのが違ってくるのではないか。

仮に、ミレイのこの「両親の家のキリスト」を中世の修道院や寺院に飾るとしたら、そういう批判が出てきても納得できるでしょう。ここでは俗世間の欲望や葛藤から自由になって、清澄な雰囲気の中で一心に神に仕える場というわけですから。普通に生活する信者もキリスト教徒たる者、それを理想として実践していかなければならないのでしょうが、実生活では、そのようなことを言っていれば、現実の生活はままならなくなってしまう。そこで、実践的には建前と本音、オモテとウラの使い分けということが起こる。修道院とか寺院と言うのは、神に仕える場ですから、生活者が実践する建前の本音の建て前の部分だけで生活しているような、プライベートを切り捨てた全部おおやけのような世界です。そこでは、個人的な感情というのは、建前に対する本音の部分に基づくものなので抑えられる。その姿が中世の天使や聖人を描いた表情のない顔に表われているように思う。それが、人間的な表情を浮かべる、ミレイのマリアが理想化されていないと評価される理由の一つというのなら、納得性はあると思う。また、支配階級としての国王や貴族の城や邸宅の中の礼拝所に飾る場合でも、おおやけ中心に生活がつくられ、ほとんどがオープンにされている世界では、教会に準じたものとして、表情豊かなマリアを描いた絵画というのは、違和感があるのは納得できると思う。

しかし、当時の新興階級として勃興してきたブルジョワの家やアパートの室内に飾る場合を考えてみると。ちょうどこのころから私生活、いわゆるプライバシーというものが市民社会の家庭生活の成立とともに発生してきた。それ以前の君主や聖職者というのは全てがおおやけで、その生活はオープンにされていた。そうすることで支配の正当化を図ってきたと言える。例えば、フランスのベルサイユ宮殿では国王の服装は皆からみられ、食事も何を食べているか公衆の面前で摂られていた。これに対して、ブルジョワの食事は家族、あるいは親しい友人といった比較的内輪で非公開で行われた。そのため、住まいというものも、君主の城や宮殿、あるいは寺院のような原則として公開を前提にしたものではなくて、原則的に非公開な閉じたものと言えた。そのような室内で飾られる絵として、建前の世界向けに書かれたものがフィットするだろうか。プライベートな生活と言うのは、他人に見せたくない部分を多分に含んでいるもので、そこに人間的に懊悩なんかを超越した悟りきったような聖像があっても、浮いてしまうのではないかと思う。そこでニーズに応えようと言う試みとして、このミレイの「両親の家のキリスト」を見てよいのではないかと思う。

この作品を見て、第一印象として聖家族という神々しさ、というよりは家族としての親しみ易さの方を感じるのではないか。それは、まず大工の仕事場という生活感にあると思う。それは、ブルジョワというのが仕事をする、働く勤勉さというのが倫理のベースになっているからだ。大工の父親が仕事をしている周りを子供が遊びまわり母親が見守る、というのはブルジョワの家庭生活を肯定することになる。イエス・キリストというのはそういうところから出てきたというわけ。そして、その仕事場にいる家族は、普通の生活する人間と変わらないという描かれ方。このことが、君主や僧侶という普通とは違う生活をしている人から見れば、理想化されていないと映ったのだろう。だからこそ、描かれた人々に人間的な表情が必要だったと思う。

そして、もうひとつ、マリアにしろキリストにしろ、描かれた表情は単に釘による傷を痛がる子供、それを気遣う母親というだけにとどまっていないこと。ここにこの作品を批判する人々とは違う基準での理想化が行われている。しかも、それをブルジョワの家庭では理解していたのではないか、と思われることが挙げられる。マリアの深刻な表情は、単なる子供のけがを心配する母親といには、表情が重すぎる。これは、後に人類の罪を背負い十字架にかけられ、今と同じように掌に釘を打ちつけられるキリストの運命をそこに感じての表情として描き込まれているのではないか。一方キリストにしても、単にけがを母親に慰めてもらっている、にとどまらず、母親に対して慈悲深い表情を浮かべているようにも見える。つまり、当時のブルジョワの教養と信仰に対する態度がそこに反映し、画家の意図は理解されていたと思われるし、その程度まで描き込まれることに対する需要があったのではないか。つまり、単に普通の家族を描いたのではなくて、宗教的な信仰に結びつく需要も高かった。それは、ヴィクトリア調といわれるような風俗、後世からみれば取り澄ましたような道徳をやけに強調する風潮からは、ブルジョワの自負と貴族等の旧支配階級に対する対抗意識が当然あるわけです。そこでは、ある面でのエリート意識のようなものはあったはずであり、そういう人々にとって、ミレイのこの作品を見るには、ある程度の予備知識が必要不可欠という、ただし、それほど難しいことを求めているわけではないというのは、ブルジョワのエリート意識をくすぐるものであったのではないか。

そしてまた、大工と言うブルーカラーの庶民層の人々を描いているわれには、貧乏臭さとか、汚らしさのようなものはない。どちらかと言うと古代の無垢な時代というように居間に飾っても、そういう点で室内の雰囲気を壊すものでもない。

そして、描かれている人物に表情があるということは、観る側の人間にとっては、感情移入ということができ、それだけ画面の人物にリアリティや親近感を、より感じられるのではないか。例えば、マリアの表情というのは、背後にあるストーリーも分りやすいし、一種の紋切り型として、同情というような感情移入ができるのではないか。ちょうど、ハリウッド映画のヒロインに対するような形で。

それを、ミレイが意識しているかどうかは、分らない。しかし、この時代の画家は顧客としてブルジョワが有力になってきていたはずだし、何よりも絵を顧客に売らない限りは、画家の生活の糧は得られなかったはずだから。

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