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2012年5月 3日 (木)

渋谷克美「オッカム哲学の基底」(6)

第2部 言語と論理について

第4章 オッカムのポルピュリオス註解

オッカムは『大論理学』の中で、類、種、種差といった普遍に関するポルピュリオス『イサゴー』を註解している。彼の註解は極めて特異なものであり、かれの哲学の基本的な立場と密接に関わっている。

ポルピュリオスは、次の五つのテーゼを述べている。

1.類は種よりも本性的により前である。

2.類が除去されると、種も除去される。

3.類も種も、それらが述語づけられるところのものよりも前である。

4.種差は、事物の本質的部分である。

5.類は自らの内に、すべての種差を可能態において持つ。

(一)類は種よりも本性的により前である

オッカムの解釈の特徴は、このポルピュリオスのテーゼの持つ存在論的意味合いを取り去り、このテーゼを論理的観点から解釈し直した点にある。オッカムが第一に主張するのは、類は外界の事物の本質に属するものではないという事である。むしろ類は外界の多くの個物に述語づけられ、それらを表示する心の中の概念なのである。同様に種も心の中の概念であり、何であるかという点に関して外界の多くの個物に述語付けられ、それらを表示するけれども、しかし外界の事物の本質に属するものではない。類と種は、表示の仕方においてのみ異なるのである。

このような考え方のもとで、オッカムはポルピュリオスのテーゼを次のように解釈する。この類と種の間に成立する序列は、これまでしばしば外界の事物の側の秩序、すなわち外界の事物の諸部分の存在論的な序列を意味するものとして誤って解されてきた。しかし、こうした類と種の序列は、外界の事物を表示する記号である概念どうしの関係と理解されるべきなのである。このテーゼが意味しているのは、類である概念は、種である概念よりも本性的により前であるということに他ならない。しかしそれは、心の中の種概念の存在は、類概念の存在を前提にしているという意味で、類が種よりも本性的により前であると言われているのではない。なぜなら、種概念が、類概念の存在なしに、心の中に存在することはあり得ることだからである。そうではなくて、より前にということは、より共通であるが故に、より多くの事物に述語づけられうるという意味に解されるべきである。すなわち、オッカムによれば、「類が種よりも前である」とは、存在論的な意味でより前なのではなく、論理学的な意味でより前なのである。このポルピュリオスのテーゼは、類が種よりもより共通な概念であり、種よりもより多くの事物を表示する記号であることを言わんとしている。

(二)類が除去されると、種も除去される

オッカムの解釈、ポルピュリオスの伝統的な解釈に反している。中世の伝統的な解釈では、種は類に実在的に依存するという意味に解されてきた。しかしオッカムの解釈によれば、このテーゼは、純粋に心の中の概念どうしの間の論理的な関係を意味するものとして解されるべきなのである。さらに、オッカムによれば、「類が除去されると、種も除去される」というポルピュリオスのテーゼは、もし類が消滅するならば必然的に種も消滅するという意味に解されるべきではない。なぜなら、たとえ「動物」という類概念が私の心の中に存在することを止め、消滅するとしても、しかしだからといって必ずしも、「人間」という種概念が私の心の中で存在することを止めるとは限らないからである。むしろ。このポルピュリオスのテーゼは、論理的な除去の意味で、すなわち、類の否定から種の否定への推論は妥当であるという意味に解されるべきである。

(三)類も種も、それらが述語づけられるところのものよりも前である

オッカムは次のような解釈をしている。このテーゼは、存在において類は種よりも本性的により前であり、さらに種は個物よりも本性的により前である、という意味に解されるべきではない。なぜなら、オッカムによれば、類も種もいずれる心の中の概念であり、そして外界の個物はたとえ心が存在していなくても存在することが可能であるが、他方類や種は心が存在してなければ、存在することが不可能なのだから、存在においては個物の方が、類や種よりも前だからである。むしろ、ポルピュリオスの言う「類も種も、それらが述語づけられるところのものよりもより前である」というテーゼは、個物と類と種との間の推論の論理的関係を意味するものとして解されるべきである。すなわち、「類も種も、それらが述語づけられるところのものよりもより前である」と言われているのは、個物から類や種への推論は妥当であるが、その逆の推論は妥当ではないからである。

(四)種差は、事物の本質的部分である

先ず第一に、オッカムは、種差が外界に存在する事物の本質に属する部分であることを否定する。オッカムによれば種差は、①心の中の概念であり、それゆえ、②事物の本質的部分そのものではなく、むしろ事物の本質的部分を表わすものなのであり、③それは、事物の形相的部分そのものではないが、しかし定義の中で、形相と類似の役割を果たす部分であることから、類比的に「事物の本質的部分」と呼ばれるのである。

ここで、「種差が事物の形相的部分である」という命題について、オッカムによれば、種差が外界の事物の内に存在するものであることを意味しているのではない。むしろ、種差は心の中の概念であり、事物の定義の内に置かれるものなのである。もし誰かが、ではなぜ種差は「形相的部分」と呼ばれるのかと問うならば、オッカムは次のように応える。その理由は、種差はすべて、それが定義の内に置かれるならば、形相の如きものとして働くからである。定義の中での種差の役割は、外界の事物における形相の役割に比せられる。なぜなら、事物において形相は、先在する質料を前提とし、それに付け加えられるものであり、それとちょうど同じように、定義において種差は常に類に付け加えられるものだからである。

(五)類は自らの内に、すべての種差を可能態において持つ

ポルピュリオスは「類(動物)は自らの内に、すべての種差(理性的)を可能態において持つが、現実態においてしどれ一つ持たない」という。オッカムの解釈は、ここでの‘可能態において’‘現実態において’という表現は、事物の実在的関係を意味するものではない。むしろ、これらの表現は類と種差の論理的関係を意味しているものとして解されるべきである。それゆえ、ポルピュリオスが「種差は、類のうちに可能態においてある」と述べた時に、このポルピュリオスのテーゼが意味していることは、種差は類に全称命題の形式においてではなく、特称命題の形式において述語づけられるということに他ならない。‘可能態において’という表現は、論理学と実在的学とにおいて同名異議的に用いられているのである。オッカムは両者の相違を明確にする。

これらのポルピュリオス解釈において、オッカムは次のことを意図している。第一は、類や種や種差が外界に実在的に存在する事物の本質に属するものでないことを強調することである。オッカムによれば、類や種や種差はむしろ、外界の多くの事物を表わし、表示する心の中の概念である。ここにおいてオッカムは、類や種や種差を心の外から、心の内へと移行させている。第二に、オッカムは、ポルピュリオスのテーゼから、存在論的な意味合いをできるだけ取り除き、存在についての議論を、言葉の側に属する論理についての議論へと転換させて解釈することを提案している。オッカムはこれらのテーゼを論理的な観点から解釈しようと試みている。オッカムが、このような解釈を提示していることに、心の内の言葉と、心の外のものを明確に区別しようとする彼の哲学的意図を見ることができる。

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