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2012年5月20日 (日)

英国ヴィクトリア朝絵画の巨匠~ジョン・エヴァレット・ミレー展 (4)~エステル

Mireestel 写真の発明によって、肖像画という画家の大きな生計の道が従来のままでは、成り立たなくなったときに、画家は生き残りを賭けて何をしたか。ということがこの作品よく現われていると思う。また、ミレイと言う画家がそのようなニーズを如何に的確にとらえ、巧みに応えていったかも分かる。『マリアナ』の所でも書きましたが、写真に出来ないことに特化することによって、差別化し絵画の有利性を強調するというのがそれです。現代のマーケティング戦略そのもので、私がそのような目で見てしまっているからのか、それほど、ミレイの戦略性、別の言葉で言えば政治性は際立っている。

エステルというのは聖書にでてくる古代の女性で、バビロン捕囚の後のころのユダヤの女性でペルシャ王の後宮に入り、王妃となってハマンによるユダヤ人虐殺から同胞を守るため、意を決してアハシュエロス王の部屋に入る場面を描いている。召されずに王に会見することは禁じられているため、エステルにとっては生死を賭けた行為であったことを活写している。

しかし、この女性の顔をよく見てほしい、およそユダヤ人には見えない。典型的なイギリス人の顔をしている。それもそのはずで、実際の実在する女性を描いている。いうなれば古代のエステルに扮した肖像画を描いているのである。写真にはできない、絵画の独自性として、具体的にここで行われているのはフィクションを描くことである。そのために空間構成や、舞台設定、小物の配置、本人の扮装などを人工的に作り上げる。これは、単にあるものを写すだけの写真にはできないことで、しかも、画面全体をそれらしくリアルに見せるために描き方で様々な工夫をしている。さらに肖像画の特性として、誰が描かれているかを明らかにするためにポーズも現実には難しい恰好をさせている。この場合も、王の部屋に入ろうとする動きと、肖像である顔が分らねばならない。それを無理のない形で画面に収める工夫と、エステルの物語性を画面に持ち込む工夫と、さらには、大理石の柱石を舞台とするというような写真では作ることが難しい画面を作っている。また、『オフィーリア』では様々な花や『マリアナ』では婚約指輪や床や卓上の落ち葉といった小物の配置に象徴性を持たせて、物語を想起させる効果を上げさせている。ここでは、髪飾りを外させ、敢えて結っていた髪を解いて、性的な隠喩と官能性を表わしたりと、様々に深読みできる記号を巧みに配置している。

また、画面での空間構成がブルジョワの居間に飾られるのに見合うようなコンパクトに構成されている。大広間ではなく、実際に生活される家屋の適度の広さの室内にちょうど収まるように、この作品では空間の一部を切り取ったような形にしていて、壁に人物が相対しているような構図のため奥行が省略できるように工夫している。さらに、白、黄色、青という原色を対立的に使い、装飾的効果をあげて、人工的な空間を作り出している。これは、当時のウォルター・ペイターやオスカー・ワイルド等による唯美主義的な芸術運動の影響とも言われている。官能的で豪奢な、ときに時代的性格が曖昧になるという特徴は、この作品にも当てはまるのではないか。同じような時代の影響をうけ、平面的な場面づくりで共通する、ロセッティの『見よ、われは主のはした女なり』やホイッスラーの『白のシンフォニー』と見比べると、ミレーの特徴が際立ってくる。例えば、ロセッティの作品が白い壁やシーツ等で全体を白を基調にして清楚な雰囲気の中で金髪や赤い小道具を部分的に目立たせているのに対して、ミレイは大理石の柱と壁で白を基調にしつつもカーテンの青とエステルが纏う黄色が平等に拮抗するように描かれていることで緊張感を与え、場面の緊迫感を高めている。さらにややもすれば、ロセッティが細部を強調するあまり全体のバランスを欠いてしまう印象があるのに対して、ミレイは全体とのバランスを考えている。一方、ホイッスラーの作品は白を基調にして清楚で静的な作品になっているのに対して、ミレイは平面的な空間でも人物に動きを与え、それを感じさせない。これを見てみると、ロセッティやホイッスラーは部分にこだわる傾向があるのに対して、ミレイは常にバランスを考えている。その点が、ミレイの作品のどれもが収まりはいいけれど、突出した強烈な個性の噴出がないという印象に通じると思う。

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