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2012年5月27日 (日)

上野修「スピノザの世界 神あるいは自然」(9)

(2)神と世界を許してやること

「人間の出来ることはきわめて制限されていて、外部の原因の力によって無限に凌駕される。従って我々は、我々の外にある事物を我々の使用に適合させる絶対的な力を持っていない。だがたとえ我々の利益への考慮の要求するものと反するような出来事に遭遇しても、我々は自分の義務を果たしたこと、我々の有する力はそれを避けうるとこるまで至りえなかったこと、我々は単に全自然の一部であってその秩序に従わねばならないこと、そうしたことを意識する限り、平気でそれに耐えるであろう」

ここにあるのは、「必然」というものへの一種の愛、そしてそこからくる絶対的な安心である。実際、我々は何かを真理として理解しようとするとき、必然的にこうであって別な風ではあり得ないという事柄以外に何を欲しているというのか。我々の不安や恐れは、そういう事柄以外のもの、我々がそれを生み出す原因の秩序を知らず、必ず出てくるとか出てこないとか言えない限りのもの、とスピノザは言う。だが、ことが起こってしまったなら、原因の秩序から必然的に出てきたと考えるのが道理といえる。起こらないこともあり得たと想定してみても、起こったことの理解がそれでどうなるわけでもない。起こることは私がどう想像しようと必然的に起こる。そう覚悟を決めると、期待と怖れに振り回されることは止む。

(3)人間を許してやること

不愉快なことが起こるとき、我々は排斥すべきものとして不愉快の原因を憎む。憎しみとは「外部の原因の観念をともなった悲しみに他ならない」活動力が低下しつつあるのである。我々は自分の行動を意識しながら、その行動へと決定している諸原因を知らない。そのために自分は何からも決定されない「自由な存在」だと誤って信じている。そして他人も同類だと思っているので、他人は彼自身から決定されたわざとやるものと信じ、不愉快をその他人のせいにしてしまう。さらに、我々には「感情の模倣」というメカニズムがあって、自分に似た存在、つまり他人の感情を思い浮かべただけで、自動的にその感情に染まってしまう習性がある。他人の憎しみを思い浮かべただけで同じ感情が刺激され、自分も憎むようになっている。「自由意志」の幻想と「感情の模倣」。この二つが組み合わさって、許せないでいる。このような感情は、みな悲しみの一種なので、他人を許せない間、我々の自己肯定力は低下していく一方である。

これに対して、スピノザは、無理に人間を許そう、愛そうなどとしないで、自分の感情を自然現象として理解することか必要という。私が悲しみとして経験している身体変状には、私が思い浮かべているよりも遥かに多くの原因がある。私の脳裏に刻まれた痕跡のネットワークである記憶が、連想と感情の模倣を誘導し、他人を都合の良いターゲットとして浮かび上がらせている公算が大きい。しかし、そもそも他人は、私と同じく自由原因などではなく、彼も自分の行動は意識しているがその原因は知らない。このように理解すると、理解は十全な観念による理性の能動だった。だから、感情は受動であることを止める。自分感情を説明できているぶん、実はもう他人を許している。

これは、他人のために許してやるのではない。自分自身のために許すのである。無力のしるしでしかない否定的な感情から自分自身を救いだし喜びと欲望だけから大いなる自己肯定へと向かうために、同時に、そこに向かっている証拠として「人間」を許すのである。

(4)社会を許してやること

スピノザの倫理は徹底して自己肯定を原理にしている。これを追求することは、他人を蹴落とし自己の利益ばかりを追求するエゴイズムにならないか。スピノザによれば、個体Aと個体Bがあるとする。Aの現実的本質はAの自己肯定に役立つあらゆることをAにさせ。Bの現実的本質もまたBの自己肯定に役立つあらゆることをBにさせる。AもBも同じ属性の様態なのだから、共通するものを持っているはずだ。ならばAの自己肯定に役立つことが、同時にBの自己肯定に役立つことでもある。この共通をベースにABが結合すれば、互いに有益である。我々は、生き物や事物とも一致する。しかし、このように一致の中で一番有益なのが人間、それも理性に導かれる限りにおける人間である。というのも、理性的な人間は人間本姓にとって役立つことしかしないから、そういう者同士が一致しやすい。

「神あるいは自然」の認識に携わる限り、二人が対立することはありえない。神あるいは自然の認識は自己肯定の徳に従う人々の「最高の善」である。この善を享楽する人間同士は必然的に一致し、互いに有益であろう。た゜から徳に従う人々は他人もそうなってほしいと必然的に思う。

人間は本当に自己の利益を追求すねなら、その限りで互いを最も大切にし、互いに最も多く感謝するであろう。従って、皆がまっとうに自己の利益を追求する分には基本的に何の問題もない。

以上、4つの点について見てきた。4つの点から許すというのは、現状肯定にすぎないと訝る向きもあろう。しかし、そうではない。

自己肯定の衝動は欲望としてしか意識されない。従って、哲学がなしうることはこの目的を「完全」な理想像としてはっきりさせ、「最高の欲望」に形を与えることに尽きる。従って現状を、その理想像から遠ざかっている分「不完全」だと評価するのは構わないし、当然なのである。ただ、我々から見て不完全でも、事物は現に何かができていることに変わりはない。事物の力能はいつも及ぶところまで及んでいる。それが分らないで、人は何を改善しようというのか。スピノザによれば、「完全」「不完全」とは事物そのものに宿る性質ではなく、もともと我々が同じ種類の事物を比較する時の「思考の様態」に過ぎない。真理についても、「神あるいは自然」の中ですべては真実なるものとして生じている。その点では一切はいつも等しく完全で、いかなる点においても欠けるところはない。我々が自分の衝動関心から比較するから「完全」とか「不完全」とか言っているだけなのだ。スピノザは、誰に対しても完全であるような「命令」はしなかった。たしかに、我々の評価基準から見て完全であることは望ましい。その判断は正しい。だからそうなるために、あるいはそうなってもらうために、ありったけの知恵を絞る。しかし「神あるいは自然」は、人間の願いを叶えるために存在しているのでも働いているのでもないことを忘れてはならない。事物は我々が思う完全なものになるために存在しているわけではない。それ自身で見られれば、存在する以上どんなものその都度完全である。だから、「神あるいは自然」を認識するように万人を義務付ける命令など存在しない。もしそういう認識が若干の人々にアクセスできるなら、それは望外の恩寵なのだ。

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