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2012年5月 9日 (水)

上野修「スピノザ 無神論者は宗教を肯定できるか」(2)

第2章 敬虔の文法

スピノザの『神学・政治論』の主題は、こうだ。考える自由は敬虔も平和も損ねない。いやむしろ、それを抑圧する敬虔と平和まで破壊してしまう。このことを、ほかならぬ聖書そのものを根拠に証明する。そのためには、どのようなことが敬虔とか不敬虔と言われうるかを聖書そのものから明らかにし、次に、誰が敬虔・不敬虔の判定権を持つかを明らかにする(神学ブロック)。後半では、これを国家の最高権力の問題として論じる。公権力によって当然不敬虔として断罪される事柄とは何かという最終結論を与える(政治ブロック)。

不敬虔とは聖書に反することだとすれば、何が不敬虔と言えるかをはっきりとさせるためには、神の言葉とされる聖書を理解しなければならない。つまり、聖書をどう読むかが神学ブロックの中心問題になってくる。

聖書が神の言葉なら虚偽を語っているはずはない、聖書は真理を語っている。しかし、不敬虔とはこの信念を否定する者たちのことではない。対立する、いずれの陣営も「聖書は真なり」という前提を共有しており、それ故に理性の不敬虔という疑惑が絶えず持ち上がる。つまり、「真理は理性に矛盾しない」という公理が双方の側で相手への攻撃理由になっていた。

スピノザは、この最初の前提、聖書全体が真理であるという盲目的な前提がそもそも間違っているのではないかと考えた。聖書が真理を語っていると最初から前提すると、当然、聖書全体が真理の暗号と化す。これを理性で解釈したり、超自然的に文字通りに受け止め、どちらも真理を主張し、不毛な論争を繰り返す。実は、彼らは、自分好みの哲学を勝手に聖書に読み込んでいるだけなのだ。そこで、スピノザは、聖書と理性が対立する論争自体が間違っていると考えた。そこで、スピノザは言う。

聖書解釈で一番大切なのは、性急に「真理」を読み取ろうとしてはならないということだ。聖書が語っている「意味」を真理と混同しないこと、これがスピノザの聖書解釈の基本である。聖書は大きく見れば、歴史物語と啓示とからなる。啓示は預言者たちが語る部分である。預言者が、超自然的な光でしか理解できない不可思議な真理を語っていたとして、それは誰に対して話していたのか。預言者が説教をする必要があるのは、不信心者や冒涜者だったはずだ。そういう人にわざわざ理解できないような深遠な真理を話す必要があるのか。哲学的真理の同様である。預言者の話の聞き手である、普通一般の人々は超自然的な光ににも哲学的素養にも無縁だが、預言者が何を言おうとしたか分っていたはずである。このように、スピノザは、預言が一個の言語行為として成立できた条件を問題にする。預言の真理性ではなく、主張可能条件を問題にしたのである。

では、預言者は何を語り得たか。預言者は神の言葉を一人称で語った。「預言的確実性」と呼ばれる確信、ある発話が、これは神の言葉であると本人にも聴き手にも確信される、が成立する条件として次の三つを指摘する。

一、預言者の生き生きとしたイマジネーション

二、預言者に神から与えられた徴

三、正しいこと・よいことのみに向けられた預言者の心

ここで大事なのは、預言者たちは自分氏自身からでなく、自分の外から確信を得ていたという事だ。預言者が確信できたのは証明可能な事柄の真理ではない。そのように民に告げ、そのように語ることが神から見て正しいはずだという、自分の側に根拠のない、証明不可能で倫理的な確信、これが預言的確実性であるという。以上の主張可能条件から、スピノザは、預言者たちのメッセージが「何にもまして神を愛し、隣人を自分自身に様に愛せ」という神の命令に帰着するという。この神の命令の絶対的な正しさこそ、かれらの確信を支えていた。このような、人間がどうこうできない命令の「根拠づけなき正しさ」に聖書の神聖性を認めていた。

真の基礎はもっぱら神への服従にある。神は正義と愛をなせと命じる。これは有無を言わせぬ絶対命令であって、「事柄の真理」がどうなっていようとその正しさには関係がない。敬虔な者とは、要するにこの命令に心から服する人のことである。「各人の進行は真偽に関してではなく単に服従か不服従かに関してのみ敬虔な信仰あるいは不敬虔な信仰と見なされる」とれが聖書の論理だ。ならば、そのように服従する人なら必ず知っていなければならない事柄、必ずしも真ではないかもしれないけれど、それを知らないと服従そのものがなくなってしまうような事柄を、服従の必要条件として論理的に書き出すことができる。それが信仰の教義である。これは、知っていると言っても、何か根拠があって知っているのではない。もし知らないならば服従できているはずがないという意味で、現に服従している人なら、論理的に、必ず知っている。スピノザは、心理を語っていなければ聖書ではないという同時代の前提を解除してしまったのだ。「普遍的信仰の教義」は、それ自身の無知によって真偽の詮索から守られている。それは、ある種の文法に属する事柄、聖書の神について何か思ったり言ったりするときに万人が知ってか知らずか一致して従っている文法規則のようなものだ。だから真偽とかかわりなく「普遍的」であって、誠実なことなら異論の立てようがないのである。このように、預言者の得た確実性は「言われていること」の真理にではなく、かく「言うこと」の倫理的かつ文法的な正しさにのみ存する。だから、真理を教えることは聖書の目的ではない。したがって、神学と哲学との間には何らの相互関係も何らの親近関係もない、つまり無関係ということになる。聖書の真理か理性の真理かという不毛な論争は、偽問題として消え去る。

では、スピノザ自身は、普遍的信仰の教義を受け入れていたのだろうか。彼は教義を虚偽として否定することはしない。彼が否定するのは、預言的確実性をまるで真実の確実性のように証明できたり反駁できたりすると考えている人々の思い上がりである。「神あるいは自然」の知的認識と最大の自己肯定から生じる「よいことをしたい」という欲望、これを『エチカ』は「敬虔」という言葉で呼ぶ。敬虔な行いは理由が何であろうと敬虔である。スピノザが強調するよう、正しく行う人は、宗教におしえられてそうしようと、理性に教えられてそうしようと、隣人愛の教えに適っているというだけで等しく敬虔なのである。思想的にまったく無縁なものたちが、よき行いに関してなぜか無縁なままで一致する。それが恩寵というものであろう。それ以上に神学、哲学は、経験について何を言うべきであろうか。スピノザは、普遍的信仰の教義を受け入れる。言われている事柄が真だからではなく、その文法的正しさゆえに受け入れるのである。

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