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2012年5月11日 (金)

上野修「スピノザ 無神論者は宗教を肯定できるか」(4)

第4章 『神学・政治論』の孤独

『神学・政治論』が発表されると、無神論の書としてさんざんに非難された。論難者はリベラルな共和派のデカルト主義者であるランベルト・ファン・フェルトホイゼンからだった。フェルトホイゼンが『神学・政治論』に見たのはある種の欺瞞だった。スピノザは宗教を肯定するように見せかけながら、その実、宗教を捨てている。かれはそう感じた。フェルトホイゼンが言うには、スピノザの言う「神」は一切を不可避的な自然法則の必然性に拠って生じるような神で、ほとんど宇宙と同じようなものである。すべては必然で最後の審判の余地などどこにもない。また、教義の内容ではなく文法が大切ならば、異教徒に神や預言者がいても構わないことになる。フェルトホイゼンは「聖書は真理を教えていないし教える必要もない」というテーゼに引っ掛かっている。

スピノザは、古代の神政国家がうまくいっていた秘密は、欺瞞や策略ではなく無知にあると見ていた。モーセや預言者たちは、常に人民の潜在的暴力にさらされていたと言える。預言者たちは正義への誠実な思いだけを担保に、外の力に曝されながら、自らの言説の正しさの確信を得たのだった。預言者たちは無知で構わなかったし、事実無知だった。だからこそ、群衆の力に曝されながら彼らが無知によってなしえたことを心に留めよ、スピノザは言っているように見える。

統治が上手くいっていた当初のヘブライ人たちは、原因をしらず、自分たちに奇跡が起こったと信じた。古代ヘブライ人は自然の業はすべて神の業と信じていたから、彼らに起こったことは神の業であり、自然の法則によって起こった。そして、迷信は統治が緩み、上手くいくべき国家が危機に瀕する時に、人々が不安に駆られ神々に犠牲や請願を捧げるようになるという。宗教はこのような迷信への対処とスピノザは考えていた。このような制度としての宗教が失敗する時、迷信が蔓延るのだ。

つまり、スピノザは信者が信じるようには宗教を信じてはいない。つまり、真理性という点では全く信じていない。フェルトホイゼンはそれを欺瞞的だと言った。スピノザが宗教を信じていたというのは、心理を知る者は真理を語らぬ宗教を受け入れ、無知なる信仰を受け入れる。他者のために、そして自らの存在維持のために。神学・政治論的な全状況の中で群衆の力に曝されながら、いわば無限に遠くから「自己自身を愛するように隣人を愛する」っていうことだった。だが、こんなことを理解する人はスピノザ以外、誰もいなかった。

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