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2012年5月23日 (水)

上野修「スピノザの世界 神あるいは自然」(6)

では、その観念がその人間の「精神」だ、とはどういうことか。一般に思考の世界では、死せ浮説の真なる観念Qを理解し・結論しているのは、その事物の近接原因の思考Pである、ということになる。ところですべての思考は例外なく神が思考属性で様態化したものだった。それゆえ、スピノザ的に言うと、観念Pになっている神が観念Qを理解し・その観念Qの対象をそれとして知覚している、ということになる。そうなると、「身体の観念」が精神のように何かを理解したり知覚したりしても不思議ではない。ここで、スピノザは「考える実体」を消去していると言える。思考の無限連鎖が自ら継起しながら思考しているという構図だ。

この構図とは、こう考える。まず、無限に多くの事物の「秩序と連結」がある。身体が下位の諸部分の協同パターンにスーパービーンするように、事物は他の事物を近接原因としてこの世に出てき、同時にさらに別な事物の近接原因になっている。それと同じ秩序と連結で事物の観念が生成されている。そこでは、それぞれの観念が対象事物の近接原因の認識を含む。そして、それぞれの観念は、まさにその近接原因の思考になっている神によって理解され・結論される。観念Rは観念Qによって、観念Qは観念Pによって、というように。スピノザが「無限知性」と呼んでいるものは、このようなものだ。無限知性は無限に多くの観念の連鎖からできており、そのどの部分を取っても前提→結論のような繋がり方をしている。だから神はどの連結部でも、帰結観念を前提観念の位置で理解し、そり観念対象を知覚している。実際には連鎖はこんな直線ではなくて、事物の秩序と連結と同じように枝分かれしたり合流したり、相当複雑なことになっている。その全体が一挙に、無限知性として出てきていると、スピノザは考える。スピノザの神はこんな風に観念連鎖の細部に偏在し、いたるところで知覚を生じている。

すると、我々が何かを知覚しているということは、無限知性の細部で生じているそうした局所的な近くの一部であろうと見当がつく。我々は、自分でも知らないうちに神の中に生成している身体の観念であり、それが自らその直接の前提になっているような何らかの帰結を知覚している。何を知覚しているかというと、それは「身体の変状」であろう、とスピノザは言う。

我々の身体Aが他の物体Bから刺激されて変状aを自らの内に生じる。そして、このaの認識は身体Aと物体Bの両方の認識に依存しかつこれを含む。「身体Aの観念」になっている神の思考は「物体Bの観念」になっている神の思考と一緒になって「身体Aの変状aの観念」を理解しているわけであるとすれば、身体Aの観念に局限しても、その位置で、変状aについて非十全ながら何らかの知覚が生じているだろう。言い換えると、身体Aの観念が自分の身体に生じている滋養対aを知覚していることになるだろう。それが我々の精神である。神の無限知性の中に生成している「身体の観念」、それが我々が魂だとか精神だとか言っているものの正体である。

この段階で、デカルトの心身合一という問題が解決されてしまったのが分かる。身体と精神の間の不可解な結合を想定しなくても、説明できることになる。

ここで、我々が常時自分のリアルな身体感覚を持っているという事実が説明された。次に、我々が台風の進路を予測できたりするのはなぜかという認識の問題である。

結果の認識は原因の認識に依存しかつこれを含むものだ。例えば、球の観念には球を理解するために半円の回転という手がかりが含まれている。そうでなければ球の作図を我々は思いつかなかった。同様に、身体変状の観念にも、その原因、すなわち身体と刺激に対する物体の両本性の手がかりが含まれて暗示されている。「人間精神は自分自身の身体の本性とともにきわめて多くの物体の本性を知覚するということになる(定理16の系1)」身体刺激を通じて我々が物体的事物をリアルに知覚するという事実がこれで説明されたことになる。これに観念の観念による二重化が生じ、「知覚している」ということ自体が知覚される。これにより、精神は身体の変状の観念を知覚する限りにおいてのみ自分自身を認識する。悩ましくも身体に取り憑かれた自己意識があるという事実がこれで説明されたことになる。ここで、なぜ精神は身体変状の観念に案に含まれた手がかりばかりに頼っているのだろうか。それは、結果としての事物の観念を理解しているのはそり近接原因の観念になっている神の思考だ。だから「身体の観念=精神」を理解しているのは身体の近接原因の観念、すなわち身体をスーパービーンさせる下位レベルの諸個体すべての観念になっている神の思考である。つまり精神自身は自分の身体を刺戟する物体についても理解しない。それを理解しているのは、その物体をスーパービーンさせる下位レベルの諸個体すべての観念になっている思考である。要するに、精神は身体変状を説明する客観的な原因は何も理解せずに、ひたすらその暗示だけを結果の中に見ているわけである。

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