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2012年5月 9日 (水)

上野修「スピノザ 無神論者は宗教を肯定できるか」(3)

第3章 文法とその外部

これまでのところで、スピノザは、人が敬虔かどうかはその人が神の隣人愛の命令に服しているかどうかぎ決まるということだった。その後、敬虔か不敬虔かという問題は、何をすればその義務に反することになるか、という問題に帰着する。思考の自由が不敬虔を招くというのなら、義務違反となるそのリミットを明確にすればよい。そこで、スピノザは敬虔の文法を明確にさせる作業を進めているのである。

敬虔の文法は「正義と愛をなせ」という命令を語り方として含むのだった。これを教えないのは聖書ではない。「隣人を自分自身のように愛せ」は、「他人の権利を自己の権利と同じように守れ」ということだ。スピノザは、他人の権利を守るにはどうしたらいいか、神への服従の論理的な必要条件を問う。それがなければこの命令の実行もなくなり、この命令が実行されるところでは必ずそれがあるというような、今度は実行上の条件が問題となる。

スピノザは続ける。まず、各人の個々の善意には期待できない。人間本姓が自然の仕様としてそうなっている。問題は、そういう人間だがそれでも、「正義と愛をなせ」という神の命令を実行できるための条件として何が必要かということだ。それに対しては、ある強大な第三者が最高権力を以って君臨し、守るべき権利を法として宣言し、全員にこれを守らせる。そのことで保証を与えるのである。神の命令が無効とされてしまわないように、敬虔の文法は必然的にこういう最高権力の「最高」を構成する論理をふくまねばならない。「社会契約」として、スピノザはこれを扱う。「正義と愛をなせ」と教える限り、聖書も服従の必要条件としての最高権力の構成について語らざるを得ない。さもないと神の命令は宙に浮く。社会契約に相当するものが聖書にもある。「出エジプト記」でモーゼに率いられたヘブライ人たちは自己の権利を神に委譲する。神の共同体は実質的に社会契約と変わらない。その神の代理人として、神の声を聞くものとしてモーゼが代理人として、神の声を伝え最高権力を行使する。スピノザは、これを神が統治権を持つ神政国家と呼ぶ。

こう見て来れば、「他人の権利を自己の権利と同じように守れ」と神の隣人愛の命令で言われている他人の権利とは、国家が法に基づいて各人に許す「国民の権利」のことであり、これを守る意志が「正義」であることが分かる。なぜその法が正しいかというと、それは、契約によって最高権力の告げる法が正しいということにしてしまったからである。それは、神政国家であろうと民主的な共和国であろうと変わらない。後は、同じ論理に従って、正当に敬虔と不敬虔を語り得る文法を書き出すだけである。この同じ文法で、スピノザはヘブライ神政国家は神に統治権があったので、当然、宗教的な「神の法」は国家の法であったことになる。したがってオランダ共和国では、聖書が何と言おうと、何が正義で何が不正義か、何が敬虔で何が不敬虔かを決定する権限はまっさらの形で共和国の最高権力にある。だから、宗教的権威を持ち出して市民政府の決定に不敬虔と不服を唱えるのは、統治権を奪おうとすることであり、まさに敬虔の文法によって「反逆的な意見」と言わねばならない。

それでは、契約の論理で行けば、最高権力は最高なので何の拘束もなく、市民の自由などお構いなしに何でも好きなように命令できてしまうことになる。スピノザはそれを否定しないが、現実にはできないという。最高権力の権利は「実際に何ができるかというその力によって決定されている」という。その権利は実際に人に何かをさせることのできるその範囲にまでしか及ばない。それを越えて何でも命令できる絶対権力というのは妄想でしかない。しかし、この範囲は契約の文法では語ることができず、物理的な力の問題となる。統治権は契約の文法によってではなく「群衆の力」によって提起せされる。

最後に、思想言論の自由について、大凡次のように証明を進めていく。まず、その人の信仰が敬虔かどうかは内容の真偽によってではなく、その人の行為の正しさのみによって判定される。そして、その正しさの判定は、専ら最高権力が法に基づいて行う。しかも人間は自分で考えたり感じたりすることを止めることは本性上不可能なので、最高権力の自然権の委譲は考える自由の放棄に及ぶことはあり得ない。とすれば、各人は何を考え何を言おうが行為の上で法に従っている限り、敬虔と平和を損なっていると誰かに責められるいわれは一切ない、ということが帰結する。したがって、思想言論の自由は敬虔と共和国の平和を損なうことなしに許容されうる。

次に、もし最高権力が宗教的勢力の圧力に譲歩して思想言論の自由を抑圧する法律を作るなら、その時から最高権力は不正を犯しているかのように見え始めるだろう。というのも、自分の信条が不敬虔だと言われることほど堪え難いものはなく、断罪された人々は意見を変えるどころかむしろ殉教者の誇りを見せるだろう。真摯さは人を感動させる。当然これは最高権力への人々の畏敬を失わせ、「群衆の力」の法則に従って共和国を危機に陥れることになる。また、たとえ最高権力の規定に従ってではなく一語も発しないように締め上げても、人々は最高権力の欲するようにしか考えないようにすることまではできない。これは物理的自然的にいってできない。人々は毎日自分の思っていることと違うことを語らざるを得なくなり、共和国においてもっとも必要な信義というものが損なわれ、敬虔をまともに受け取る人はいなくなる。従って、思想言論の自由を除去しようとすれば、同時に共和国の平和と敬虔も除去されざれを得ない。

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