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2012年5月27日 (日)

英国ヴィクトリア朝絵画の巨匠~ジョン・エヴァレット・ミレー展 (5)~肖像画

Mireportrait さまざまな、場面に作られているが、ミレーと言う画家は、本質的に肖像画家であったように思う。そして、実際に肖像画家として売れっ子となり成功したわけだが、ここで展示されている作品を見ていると、その理由も分る気もする。まず作品として立派であること。多分、モデルの特徴を上手くとらえて似ているものであること。巧みにモデルの美点を生かして依頼主であるモデルにも満足感を与えたであろうこと。そして、単なる肖像であることを越えて、ラファエル前派の特徴である物語を想起させるような場面や動きが描かれた人物に生き生きした生命感を与え、今にも動き出しそうな絵にリアリティを感じさせるようになっている。例えば、ここにある子供の画などは、敢えて寝顔を描いているが本人が目の前に居るような気にさせる。また、3人の婦人がテーブルでカード遊びをする作品などは、それぞれの特徴を服装やポーズ、座る位置などで巧みに表現している。おそらく、これらの肖像画は、依頼者の住居に一室に飾られ、依頼者本人が亡くなった後も、その人の思い出として代々飾られているのであろう。だから、市場に出回ったり、展覧会に出品されるものは少ないのではないか。しかし、ミレイという画家の本領は有名な『オフィーリア』のような作品ではなく、数多描かれた肖像画にあったように思う。しかも、王侯貴族ではなく、当時勃興していたブルジョワを主な対象とした、その趣味や文化に沿いながらも、唯美主義やラファエル前派の影響を受け世紀末の作り物めいた作品を丁寧に作り続けた。そして、顧客層がブルジョワということで、商品として絵画を扱った。それは、顧客のニーズというものを考慮してマーケティング的な志向を持ち、商品の品質を揃えるため大胆な試みをして時代に取り残されることは避けながらも過激になって人々から浮いてしまわないような節度は保つというバランス感覚を持っていた。つまり、マルクスが『資本論』の最初で商品の抽象性として説明していたような、商品の価値は、作り手の苦労や商品の品質などといった商品に内在する価値によるのではなく、市場で交換されるときに交換されるものとして与えられるものの価値によって量られるものだ、ということが絵画にも当てはまるようになっていた。それをミレイという画家は意識的にか無意識のうちにか消化していたと思う。それが、この画家が成功した原点もあるし、反面では限界でもあったと思う。Miregirl

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