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2012年5月26日 (土)

上野修「スピノザの世界 神あるいは自然」(8)

5.倫理

すべては神の本性飲む必然性から出てきて真理空間の実質を成している。我々は文字通りその一部である。その結果として、スピノザは、神にも人間にも「自由な意志」は存在しないという。スピノザは独立して働くメンタルな能力を認めない。個々の観念に含まれている肯定と否定の作用が即、意志の作用であって、「すべての意志作用は観念そのものに他ならない」意志の主体などなくても観念は観念だけでやっていける─物体が物体だけでやっていけるように。だから神にも人間にも自由な意志は存在しない。とは言っても、自由意志が存在しないと証明によって理解しても、一般には納得しにくいだろう。スピノザは、この自由意志の否定が、実生活のためにいかに有用であるかを強調している・それはつぎの点から言える。

(1)この説は、安らぎと最高の幸福を教え、正しい生き方がおのずとできるようになる効果をもたらす。(自分を許してやること)

(2)この説は、運命に振り回されない力を与えてくれる。(神と世界を許してやること)

(3)この説は、人々との社会生活に寄与する。(人間を許してやること)

(4)この説は、共同社会のために寄与する。(社会を許してやること)

このように自由意志の否定は生き方に関わり、ある種の許しとして理解できる。以下で、それぞれの点を個別に見ていく。

(1)自分を許してやること

自分を素直に愛することは意外と無図解しもので、「自分が大事」というのは利己的に見える。しかし、自分を肯定できるときほど幸福なことはない。スピノザは、それをごまかすところから道徳の嘘が始まると考える。「何人も自分以外の者のために自己の有を維持しようと努めはしない(第4部定理25)」

事物にはすべて、神の属性がある一定の仕方で表現される様態だった。そういうものに自己を否定するいわれはない。どの事物も、存在する限りは真理空間の中に結論されて出てきた肯定である。一般に、事物は皆それぞれに、それ自身の肯定であり、それをキャンセルしようとする一切に抵抗する。スピノザはこの抵抗力をコナトゥス(努力)と呼んでいる。そのものがそのものであること(自己の有)を肯定するのに役立つ全ての事柄をそのものにさせているのがコナトゥスである。その意味でコナトゥスはその事物の現実的な本質にほかならない。人間もまた。ある無限定な持続のあいだ自己の有に固執しようと努め、かつこの努力を意識している。自己肯定の衝動は我々の現実的な本質そのものである。この衝動をごまかしたら、我々は決して徳にも幸福にも行き着かないとスピノザは言う。

問題はそれをどうやって実現するかである。自己肯定はパフォーマンスを通じて実現される。デカルトは、精神が身体を自由意志で操縦している時人間は能動していると考えた。実感にはぴったりくるが、非物体的な精神と物体的な身体がどうやって作用しあうのか、メカニズムしては分らない。これに対して、スピノザは並行論なので、精神の決意と身体の決定とは同じパフォーマンスの異なる表現にすぎないと考える。精神が能動的なら身体も能動的で、能動の鍵は、自動車の走りと同様、パフォーマンスがどれだけ我々の現実的本性だけで説明できるかにある。共通なものの概念については、我々の身体の観念(精神)になっている神の志向が単独で帰結できる。それゆえ十全に知覚されるのだった。とすれば、そういう認識、つまり「理性」は、今の定義からして我々の能動である。すると、我々のやっていることは、理性的に物事を考えてやっている部分に限れば心身両面で同時に能動的で、そうでない残りの何パーセントかは心身両面で同時に受動的だということになる。こうしてスピノザは、身体を蔑視するやみくもな精神主義から逃れることができた。このように能動と受動は割合の問題なので、その比率に従い自己肯定のスケールを考えることができる。たしかに我々は全面的に決定された自然の一部に過ぎない。しかし、自分の本性の必然性だけで理解されるようなパフォーマンスに関しては、自分がやっているんだと感じ、その自分に自信を持つ。それが正しい意味での自由だとスピノザは説明する。このことは同時に、我々の感情の落ち込みと高揚を説明する。感情は活動力のバロメーターである。能動的になるとき、我々は喜びを感じ、よろこばしいものを良いと思う。とすれば、喜ぶこと、つまり自信に満ちた自己肯定の方が断然よい。そして、喜びや満足が理性的な認識から生じていて、目先の快楽や自惚れでなければもっと良い。我々が「神あるいは自然」の認識まで至り、自分のコナトゥスを神の無限の自己肯定の一部として身一つに感じられるようになったら、それは最高の「魂の平安」、安心の極致だ。「よいもの」を求める欲望は、求めるべきものの認識がしっかりすればするほど強度を増し、コンスタントになる。「目的は衝動である」目的がハッキリすれば禁欲するまでもない。逆に「最高の欲望」が他のすべての欲望を統御する基準になる。それゆえ、道徳的な迷信が何と言おうと私は私自身に全面的な自己肯定を許してやるべきである。

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