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2012年5月 2日 (水)

渋谷克美「オッカム哲学の基底」(4)

3.スコトゥスとオッカムの論争(三)─普遍概念に対応する何かが、心の外の実在的事物の側に存在しなければならない

スコトゥスは次のように主張する。もしオッカムのように、<数的な一>以外にいかなる一も認めないとするならば、個物A、B、C、D、…の間の相違は全て、単に数的な相違は全て、単に数的な相違、すなわちこのものとあのものとの相違のみであることになり、ソクラテスもプラトンもロバも図面に引かれた線も、等しく異なっていることになる。しかし我々は、ソクラテスとプラトンを認識し、それから、例えば「人間」という普遍的概念を抽象する。あるいは、「ソクラテス」や「プラトン」といった個々の事物を表示する名辞以外に、我々は「人間」、「動物」…といった普遍的名辞を用いる。だとすると、このような普遍的概念の抽象、普遍的名辞の使用を正当化する根拠である何かが、心の外の実在的事物の側に存在しなければならない。さもなければ、普遍的概念はすべて虚構であることになるであろう。それゆえ、<数的な一>以外に、普遍的な共通本性の持つ<一>の措定が必要とされる。

これらの主張は、‘事物を認識して、正当にある概念を取り出すことができるとすれば、その概念に対応する何らかの存在性が心の外の実在的事物の側になければならない。さもなければ、心の内に形成された概念はすべて虚構であることになる。’と考えるスコトゥスの思考法の特徴をよく表している。知性がソクラテスとプラトンからある共通な概念を抽象することができるのは、ソクラテスとプラトンの間にある類似関係が成立しているからである。では、なぜ、ソクラテスとプラトンの間に、ソクラテスと白色、あるいはソクラテスと線の間には成立しない類似関係が成立しているのか。スコトゥスは次のように応える。その理由は、ソクラテスとプラトンとに、彼等の本質的実体を構成するものとして、人間性という共通本性が存在しているからである。我々の知性は、個々の個物から、この共通本性を抽象し「人間」という普遍概念を持つ。従ってスコトゥスによれば、知性の働きを可能にし、更に普遍的概念や名辞の使用を正当化する根拠として、心の外の事物の側に共通本性が存在していなければならない。「人間」という普遍的な名辞は、この共通本性・普遍的実体を表示する。

このような議論から、スコトゥスの共通本性・個体化の議論はつぎのようなものとなる。例えば、この白さという一つのものの内に、完全性の相違が存在し、複数の存在性が見出される。すなわち我々はこの白さから「色」という類概念を取り出すことができるのであるから、類概念に対応する何らかの存在性がこの白さの内にある。さらに我々はこの白さから、種的差異の概念を取り出すことができるのであるから、種差の概念が対応する何らかの存在性がこの白さの内にある。これらのうち、種差の存在性は類の存在性に対して、現実態が可能態に対するごとき関係にあり、種差の存在性が類の存在性を限定し完成する。スコトゥスによれば、このような完成の究極が個的存在性・個体的差異であり、そこからは、それ以上単純化不可能な概念しか取り出すことができない。こうした個的存在性が、可能態においてある共通本性の存在性を限定し、完成する現実態の位置にある。さらにこうした思考、すなわち‘同一のものから類概念や種差概念といった異なる概念を取り出されることができるのであるから、同一のものの内に、このような複数の概念を成立させる根拠である複数の存在性が存在するのであり、それら一方の存在性は他方の存在性に対して、現実態が可能態に対する如き関係にあり、一方が他方によって限定され完成される’という発想は、個体化の理論だけでなく、スコトゥスの哲学全体に共通に見出される思想である。

このようなスコトゥスの共通本性と個体化の理論に対するオッカムの批判の根底に、序論で述べられた‘心の内の言葉の側のことと、心の外のものを明確に区別しようとする’彼の哲学的意図が見出されることは明らかである。オッカムは、‘事物を認識して、正当にある概念を取り出すことができるとすれば、その概念に対応する何らかの存在性が心の外の実在的事物の側になければならない。さもなければ、心の内に形成された概念はすべて虚構であることになる’と考えるスコトゥスの思考法そのものを批判しているスコトゥスに対するオッカムの批判の意図が、‘多くの個物の内に内在している普遍的原理、共通本性、が心の外に存在すること’の否定であった。ここでのスコトゥスに対するオッカムの反論は、スコトゥスによれば、ソクラテスはその種の本性(人間性)によって個物であるのではなく、その共通本性をこのものへと特定化する個体的差異、ソクラテス性が共通本性に付加されなくてはならぬ。これに対して、オッカムは反論する。「人間」と「人間性」の関係は、「ソクラテス」と「ソクラテス性」の関係と同じである。然るに、ソクラテス自身とソクラテス性は、外界の事物の側において、存在において異なるものではない。それゆえ、「ソクラテス」と「ソクラテス性」は同義語である。従って、「人間」という具象語と、「人間性」という抽象語も同義語である。スコトゥスの主張するような共通本性やこのもの性を認めることはできない。

スコトゥスによれば、我々の世界を根拠づける普遍的原理として、共通本性が個体化の原理によって特定化されることによって個物が存在する。これに対してオッカムは、心の外のいかなるものも、それ自身によって個であり、数的に一であると主張する。我々の周囲には、多くの事物が個として存在している。それらのものを認識する過程の中で、我々人間の知性をそれらは一まとまりに捉え、普遍的な概念を形成し、それを多くの個物に述語づける。オッカムによれば、我々人間の知性が普遍的概念を形成する以前においては、いかなる普遍も存在しないのである。かくして普遍的な原理が、心の外から、認識する者の心の中へと移行する。

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