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2012年5月14日 (月)

英国ヴィクトリア朝絵画の巨匠~ジョン・エヴァレット・ミレー展 (3)~マリアナ

Miremariana テニスンがシェイクスピアの『尺には尺を』から引用して詠んだ『マリアナ』という詩を基に製作されたものだと言う。マリアナは難破により持参金を失ったため婚約者アンジェロに捨てられ、堀で囲まれた館で孤独な生活を送る女性で、アンジェロへの想いを断ち切れずにいる。

『オフィーリア』にせよ、『大工の家のキリスト』にせよ、この『マリアナ』にせよ、物語の一部を切り取ったような作品で、ミレイには、実際の物語に依拠していなくても、物語を連想させるような作品が多い。それは、時代のニーズというものもあったのではないかと思う。ミレイという画家は、後に確固たる地位を築き、賞賛をうけた成功者となったから、というわけではないけれど、時代を見る目というものがあったのではないかと思う。それが、いい意味でも悪い意味でもミレイの作品に特徴となって現れているのではないか。ミレイの頃の時代を、画家の生活に関連する点から考えてみると、次のようなことが言えるのではないかと思う。一番大きな点は、時代を支配する階級がそれまでの貴族階級から新興のブルジョワに代わったということではないかと思う。両者の違いを少し見ていくと、画家のあり方にたいする影響が大きいことが、具体的に想像できるのではないか。まず、大きな違いとしてブルジョワは職業に就いていたり、事業を起こしたりして自らの生活を自分稼ぎで成り立たせているのに対して、貴族は自分で稼がないということだ。つまり、貴族はブルジョワの基準でみれば始終余暇だということ、だから美術や音楽に玄人はだしで高い見識を持っていたりする。しかも、今でいう芸術家は音楽家も画家も貴族のお抱えの使用人だったケースが多い。有名な作曲家のハイドンはハンガリーの貴族エステルハージ家のお抱え楽団の楽長として多数の交響曲を作曲している。その一方で、貴族は一般庶民を支配し、貢納により生活していくために、それを民衆に納得させる必要があった。豪華な宮殿や華麗な衣装、あるいは儀式といったものは単なる贅沢ではなくて、民衆に対して圧倒的な優位を示す実際的な機能があったと言われている。そのために、装飾も不可欠で、絵画もその一部して機能を果たしていと言える。だから、貴族にとっては生存のために、画家に注文をつけ描かせていた。これに対して、画家は貴族の注文に忠実に応える職人、つまり、卓抜した技能が強く要求されたと思う。これに対して、ブルジョワは自分の職業を持ち、自分で生活の糧を稼ぐ人々であった。彼らが絵画を見るのは、主に余暇としてであって、貴族のように私生活を豪華に見せる必要もなかった。しかし、日中の大半の時間を仕事に費やすため、貴族のように芸術を嗜む時間の余裕はなかったはずだ。だから、当然素人のレベルに留まる。だから、画家は貴族の使用人して身分を保証され、うけた注文にたいしては高い技能で応え、それを評価されるということで、ある程度技能に専念できた。しかし、ブルジョワを画家を使用人として雇うことなく、注文できる見識もない。高い技能を評価することもない。となると、画家としても、貴族に対するような職人では通用しなくなる。この場合には、ブルジョワに分りやすく、余暇のニーズに応えるような作品を作って示してあげることが肝要になってくる。だから、職人に徹しているだけではだめで、企画力の比重が高くなってくる。

そして、第2の特徴として、ブルジョワが社会を担うことにより、消費社会が出現し、市場が生まれたということだ。市場でやり取りされるは、もちろん商品であり、絵画も商品としての性格を帯びることになる。市場でやり取りされる商品の特徴とは何かという、価値の抽象性とでもいうことだ。絵画というのは多大な手間と労苦によって製作される。これまでは、貴族はそういうことを理解し評価してくれたわけで、それはその絵画固有の価値ということになる。しかし、市場ではそういう苦労から切り離され、それに取引でいくらの値段が付けられるかによって価値が量られる。絵画の価値は市場で決められる、これを交換価値という、つまり、市場で需要と供給があって交換される際に価値が決められる。だから、いくら高い技能で製作された絵画であっても売れないものは価値が低いものと看做されてしまう。だから、製作する側では、いかに高い価値をつけてもらえるかは売れるという要素の比重が高くなる。そこで重要になるのは、どういう題材を扱うとかいうような企画力である。

3番目の特徴として、絵画だけに関わるだが、写真の発明ということが挙げられる。今まで、画家が苦労して時間をかけて描いていた風景や肖像を写真は一瞬にして写してしまう。しかも、本物そっくりに。時間と、写実という点で絵画は写真に敵わない。つまり、強力なライバルが出現してきた。実際、実力の差は明白なので、正面から競争したのでは絵画に勝ち目はない。そこで、写真にはできないことを、絵画の特徴を生かして生き残りを賭けて行かなくてはならない。そこでも、重要となるのは企画力ではないか。そういうことが、ミレイの当時の絵画をとりまく状況としてあったと考えられる。

そう考えた時に、ミレイの作品を見ていると、今から見ても、これまで説明してきたことに上手く対処しているなあと感心してしまう。

とまあ、ここまで書いたけれど、これだけでは空疎に聞こえる。実際の作品で、それがどのように現れているかが分らないといけない。

まず、この絵の典拠している物語の主人公であるマリアナと言う女性のポーズが、動作の途中を切り取ったものであること。このことが、当時の写真では、技術的に難しかったダイナミックな動きを画面に与えている。閉じ込められたような動きのない室内で、このような動きの途中を切り取ることで、マリアナという女性を生き生きとして描き、静的な室内環境と対照的に描き出すことによって、彼女の閉じ込められたような境遇と、そのなかで煩悶するような物語を想像させる。そこで、注目すべきはマリアナの動き、ポーズだ。腰に手を当てて、少しのけぞるような、背伸びをするようなところにある。腰に手を当てて、背中と尻をこちらに向けのけ反るようなポーズは、歌舞伎の『京鹿の子娘道成寺』の中でも見せ場に同じようなポーズがあるけれど、ひとつのクライマックスとして、意中の男性に想いを馳せ悶々とする様が現れている。例えば、亡くなった先代の中村歌右衛門の踊りは、ここで極限までのけ反ることでアクロバチックな見せ場と、少女の想いの深さを業として表現していた。これに対して、ミレイの画面では手が当てられた腰の豊かさが強調されるように大きめに描かれていて、成熟した女性であることを示している。それだけに、想う男性から遠ざけられ悶々とするにも、ほんの少し性的なニュアンスが匂う。それが豊かな腰を強調し、さらにのけ反りながら、こころもち腰が揺れるようなS字のカーブを描いていることに現われている。さらに、衣服が比較的身体にピッタリと貼り付くようで身体の線、女性の身体の曲線がなぞられる様に描かれている。それは、直接ヌード画像を描くのではなく、想像を掻き立てさせることにより、エロスを感じさせるとも言える。それは、物語が埋め込まれていることで、さらに想像を促す。一方で、直接ヌード画像が描かれているわけではないので、体面を大切にするビクトリア期のブルジョワにとって、周囲を憚ることなくこの画面に魅入ることが叶うことになる。というわけで、この作品は、ブルジョワの小市民性の中で隠された欲望のニーズに無意識のうちに応えることになっている。そのあたりの点が、ミレイの作品が当時は受け容れられ、画家が亡くなると忘れ去られたことと大きく関係しているのではないかと思う。

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