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2012年5月15日 (火)

上野修「スピノザの世界 神あるいは自然」(3)

3.神あるいは自然

『エチカ』についての説明に入る。知性には自分勝手に虚構できない真なる観念がいくつか与えられており、知性はそのことを知るのにこの観念以外、何もいらない。事態がこのようになっているためには、世界はどうなっていなければならないか。これが『エチカ』の解くべき問いである。つまり、スピノザは現に若干の真理に到達している我々の精神のようなものがこの世に存在するには、世界はどうなっていなければならないのか、と問う。この問いに対して、スピノザは大方、次のように答えようとしている。

真なる思考は、それが真であるためには、思考されている事柄と一致していなければならない。逆に、現実の中にある事柄で、それを対象とする真なる思考に一致しないようなものはない。とすれば、自らの必然性だけで全現実をあますことなく生み出している存在Xがあって、このXが同時に、自らが生み出しているというそのことを同じ必然性で思考している、と考えればよいのではないか。そうすれば、思考と存在が完璧に一致する絶対的な真理空間がそのXとともに与えられるだろう。この真理空間の中に無いような真理はないのだから、我々の真なる思考も、その真理空間の何らかの一部分を占めているに違いない。こう考えれば、ばらばらな存在の我々が、知性においては全員同じ真理に到達すると言う、ちょっとありそうもない事態の説明もつく。

そこで、『エチカ』がしなければならないことは次のことである。

(1)それ自身の有(かくあること)以外の何ものも説明のために必要としないX(神=自然?)について、概念を形成すること

(2)我々の知性YをそのXによって説明すること

(3)そういう説明から我々自身について何が言えるようになるか、見届けること

そして、『エチカ』の構成はつぎのとおり。

第1部  神について                                                     →(1)

第2部  精神の本性及び起源について                                        →(2)

第3部  感情の起源および本性について                       →(3)

第4部  人間の隷属あるいは感情の力について                           →(3)

第5部  知性の力能あるいは人間的自由について          →(3)

ここでは、まず「神あるいは自然」を追う。スピノザにとって「神あるいは自然」とは、何ゆえに働きをなすかという理由と何ゆえに存在するかという理由が同じで、その存在と同様に、その活動に何の原理も目的も持たない、とにかく何かがある。その何だか分らんがとにかく在るもの=「実有」の概念を突き詰めたものだ。ここでの「神」は公理から演繹されて、いわばどうしても出てしまう、ある種避けがたい論理的帰結でしかない。

『エチカ』は説明の体系として出来ている。理解できなければ説明ではない。理解は 半円が回転→球 というように理由ないし原因によって与えられ、その→の必然性が真理の規範である。だから、途切れない→だけで全部できているような説明が望ましい。そのお手本がユークリッドの『幾何学原論』である。ユークリッドの幾何学は、真と思われるすべての命題を「定理」として導き出せるような一個の公理理論である。「理論」は、点とか直線といった主要タームの「定義」と、「二点を通る直線は一つしか引けない」というような「公理」から成る。これら「定義」と「公理」から「定理」を演繹する手続きが「証明」と呼ばれる。証明は矢印の連鎖でできている。このように公理化された理論は、証明機械と考えてもよい。そして、『エチカ』も一個の証明機械と見なすことができる。そこから定理として演繹されてくる命題が、図形ではなく実在に関する命題であるという違いがあるだけだ。このように見ていくと『エチカ』の書き方が、ある種の仮説的実験であることが分かる。

『エチカ』では「神」は出発点ではなく、定理として導かれる。順序としては、まず実体の内実が明らかになって、実体が神と一致すると言う定理がでてくる。

まず、「実体」の定義はこうだ。

「実体」とは、それ自身の内にありかつそれ自身によって考えられるもの、言い換えればその概念を形成するのに他のものの概念を必要としないもの、と解する。(定義3)

「様態」とは、実体の変状、すなわち他のものの内にありかつ他のものによって考えられるもの、と解する。(定義5)

この二つの定義により、何かが存在するなら、それは「実体」か「様態」か、そのいずれかで尽きることになる。これだけでは抽象的なので、これはたしかに実体だと分かる具体的手懸りを「属性」として定義する。

「属性」とは、知性が実体についてその本質を構成していると知覚するもの、と解する。(定義4)

例えば、リンゴは「実体」、リンゴを他の果物から区別できる手がかりとしてのリンゴ性のようなものが「属性」、そして、同じリンゴでもいろいろ色つやが変わるので、それを「様態」というように使うことができる。このような定義と公理のセットのうちいくつかから、「実体」についての定理が導かれる。

(1)唯一性─もしこの世に「実体」が存在するなら、それはその類において唯一でなければならない。

複数のものを区別する具体的な手がかりは、定義からして属性の違いか様態の違いしかない。ところが四遺体は定義によりそれ自身では考えられないので、先ずどの実体かが決まらないと違いを云々する意味がない。今の問題はどの実体化と言うことだから、区別の手がかりは属性の違いしか残らない。ゆえに「自然の内には同一本性あるいは同一属性を有する二つあるいは多数の実体は存在し得ない」(定理5)A属性の実体は一つしかないし、B属性の実体は一つしかない。つまり、実体は何であれ、その類において居並ぶものなき唯一者であり、A属性・B属性といった属性はどれもが唯一性のしるしだ、ということになる。

(2)自己原因と永遠性─もし「実体」なるものが存在するなら、それは自分で゛分を存在させている、つまり「自己原因」でなければならない。

A属性とB属性を持つ実体があるとする。属性は定義からして他のものなしにそれ自身で独立に知覚される。すると、A属性とB属性はそれぞれ別個にそれ自身で考えられねばならない。当然属性の違うA実体とB実体の間に共通点はない。共通点が全くなく断絶している以上、A実体をB実体から説明することはできない。とすれば、A実体やB実体のようなものが存在するなら、それはどれも他の実体から生み出されないで存在している、つまり自己自身で存在している「自己原因」である、ということになる。さらに、必然性を含むということは。時間で説明できない存在だと言うことである。このような必然的な存在のことをスピノザは「永遠」と名付ける。

(3)無限性の証明─実体はみな必然的に無限でなければならない。

A属性を持つ実体があったとする。A実体が有限であるためには、何か他のものによって限界付けられねばならない。属性が違うと無関係になってしまうので、限界付けるものは同じA属性でなければならないだろう。するとそれはまた、必然的にそれ自身で存在するようなA実体であることになってしまう。だが同じ属性で二つの実体はありえない。ゆえに、実体を限界付けるものとはそもそも考えられず、「あらゆる実体は必然的に無限である」(定義8)

このように見てみると、「実体」と名付けられたものは、必然的にその類において唯一であり、自己原因的であり、永遠かつ無限でということになる。それは神ではないか。

そこで、次に「神」を定義する。

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