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2012年5月 6日 (日)

渋谷克美「オッカム哲学の基底」(9)

(四)これらの命題の主語の代示の問題に対するオッカムの解答(2)

「色は視覚の第一の対象である」の主語「色」の代示に関してオッカムは、述語づけの遂行態を、述語づけの表示態へと転換させることによって命題の意味を解釈しようとする試みを提出している。

ここでオッカムが述べている述語づけの遂行態とは、「である」という動詞によって形成されるものであり、単にあるものが他のものに述語付けられているという事を表示するだけでなく、例えば「人間は動物である」「人間は走る」という事によって、一方を他方に述語づけて、述語づけを遂行している命題の形態である。これに対して、述語付けの表示態とは、「述語づけられる」とか「主語となる」といった動詞を用いて、例えば「動物は人間に述語づけられる」という場合である。この場合には、「動物」という語が実際に、「人間」という語に述語づけられることかせ遂行されていない。なぜなら、この命題において、「動物」は主語であって、述語ではないからである。この命題においては、述語づけが表示されているにすきない。オッカムは、このような述語づけの遂行態と述語づけの表示態との区別を設定することによって、言語のレベルの相違を導入していると考えられる。述語づけの遂行態、例えば「色は視覚の第一の対象である」は外界の事物についての言明である。他方。述語づけの表示態、例えば「色に、視覚の対象であることが、第一に述語づけられる」は外界の事物についての言明ではなく、外界の事物を表示する言語、あるいは心の中の言葉である概念そのものについての言明だからである。オッカムは、この区分を導入することによって、これらの命題の主語の代示の対象を、心の外の普遍的形相・共通本性から、心の中の普遍的概念へと転換させることができもオッカム以前の人々やスコトゥスの言う普遍的形相や共通本性を外界の事物の側に措定することを避けることができたのである。

すなわち、「色は視覚の第一の対象である」という命題が文字通りに解され、もし「色」がある個物を代示しているとしたら、この命題は偽となる。なぜなら、先に述べられた如く、個々の色を主語とする、どの単称命題も偽だからである。では、オッカムの以前の人々が主張するように、「色」は外界の普遍的な形相や共通本性を代示すると解すべきであるのか。しかし、「色」が普遍的なものを代示するとしても、この命題は依然として偽である。個別的な色のみが見られるものであり、普遍的なものは感覚によって把捉されることができないからである。さらに何よりも、もし「色」が外界の普遍的な形相や本性を代示するとすれば、オッカムはスコトゥスの言うような共通本性を外界の事物の側に認めなければならなくなる。しかし。オッカムが最も避けたいことである。オッカムによれば、外界の事物の側には、個である物以外には、何も存在しないからである。そこでオッカムは、「色は視覚の第一の対象である」という述語づけの遂行態の命題を意味するものとして解釈し、この命題を、外界の事物についての言明ではなく、外界の事物を表示している観念についての言明であるとし、「色」という語の代示の対象を、心の外の普遍的な形相や本性から、心の中の普遍的な観念へと転換させる。この述語づけの表示態「色に、視覚の対象であることが、第一に述語づけられる」においては、「色」という語は、心の中の色という観念を単純代示しているからである。すなわち、色という観念に、視覚の対象であるという観念が第一に述語づけられているということが、この命題によって意味されていることであり、このように解されるならば命題は真である。この観念色は、外界の多くの個々の色(この色、あの色)を表示し、命題の中で外界の個々の色を個体代示する普遍的な観念である。かくしてオッカムによれば、このように命題を、述語付けの遂行態から表示態へと変形して解釈することによって、心の外に普遍的な形相や共通本性の存在を認めることなしに、これらの命題を真であるとすることができる。

(五)偽リカルドゥスの反論

偽リカルドゥスは、オッカムの述語づけの遂行態を表示態に転換することによる解釈を批判し、「色は視覚の第一の対象である」という命題の主語「色」は形相的代示を行い、個々の色が共通に分有している普遍的形相・共通本性を代示すると述べている。

(六)述語づけの遂行態を表示態へと転換させるオッカムの意図

偽リカルドゥスは、スコトゥス学派に属する者であって、「人間は被造物のうちで最も優れたものである」という命題、「色は視覚の第一の対象である」という命題の主語の代示の問題を、‘多くの個物の内に共通に内在し、個物の存在を根拠づけている普遍的な形相的原理である共通本性が心の外に存在する’という立場に基づいて解釈している。すなわち偽リカルドゥスによれば。これらの命題の主語「人間」「色」は形相的代示を行っており、個々の人間が共通に有している、あるいは個々の色が共通に有している普遍的な形相・共通本性を代示している。この点で、偽リカルドゥスの解釈は、(二)で述べた、オッカム以前の伝統的な説を継承している。そして命題の主語「色」の代示に関して提出された、‘この語が共通なものを代示し、形相的代示を行っているとしても、命題は偽である。個別的な色のみが、見られるものだからである’という異論に対しては、(五)で述べた如く偽リカルドゥスは、‘共通本性はそれ自体においては個ではないが、しかし外界の実在の世界において、ある特定の個物の内に存在する限りにおいて、派生的に個である’というスコトゥスの個体化の理論を用いて答えている。

オッカムにとっては(四)でのべたごとく、このような‘多くの個物の内に普遍的原理─共通本性が内在し、個物は普遍的な原理である共通本性によって根拠づけられており、普遍的原理によって存在する’という考えこそがまさに、否定されるべきものだったのである。それゆえ、オッカムはまず最初の命題について、主語の「人間」の代示の問題に対しては、‘普遍が個物の存在を根拠づける’という普遍優位の考えを否定し、むしろ‘個物は普遍的な本性よりも、より完全である’という個体優位の思想に基づいて解答している。すなわち、もし「人間は被造物のうちで最も優れたものである」の主語「人間」が、心の外の普遍的な形相・共通本性を代示するとしたら、普遍的な人間の形相・共通本性の方が、個々の人間より優れていることになる。しかし、これは偽である。ソクラテスやプラトンといった個物の方が、普遍的な人間の形相・共通本性よりも優れているからである。それゆえ、この命題は文字通りに解されるならば偽である。

さらに、次の命題の主語「色」の代示の問題に対しては、オッカムは‘外界の事物の内うちには、個であるもの以外には何も存在しない’という彼の個体主義に基づいて議論している。もし、「色は視覚の第一の対象である」という命題が文字通りに解され、「色」がある個物を個体代示はしているとしたら、その命題は偽である。では、オッカム以前の伝統的な説、あるいは偽リカルドゥスの解釈のように、これらの命題の主語「色」は外界の個々の色が共通している普遍的な形相や共通本性を代示すると考えるべきなのか。しかし、‘心の外に、いかなる普遍的なものの存在を認めない’というのがオッカムの最も基本的な立場である。それゆえオッカムは、心の外に普遍的な形相や共通本性の存在を認めることなしに、これらの命題を述語づけの表示態へと転換して解釈し、これらの命題が外界の事物についての言明ではなく、外界の事物を表示している観念についての言明であるとする。すなわちオッカムによれば、例えば「色は視覚の第一の対象である」は、「色に、視覚の対象であるが第一に述語づけられる」という述語づけの表示態において「色」という語は、心の中の色という観念を単純代示しており、心の中の色という観念に、視覚の対象であるという観念が第一に述語づけられるということが、この命題によって意味されていることなのである。ここにおいてオッカムは、「色」の代示の対象を、心の外の対象を、心の外の普遍的な形相・共通本性から、心の中の普遍的な観念へと移行させている。かくして、オッカムが命題を述語づけの遂行態から表示態へと転換させる意図が、心の外の普遍的な共通本性を否定し、心の内のものと、心の外のものを区別することにあったのは明らかである。

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