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2012年5月29日 (火)

上野修「スピノザの世界 神あるいは自然」(10)

6.永遠

スピノザの倫理は一言で言うと「強さ」の倫理である。「強い人間」は、勇気と鷹揚さでもって許してやるだけの器量がある。一切が「自然」の本性から出てくると考えられるので、不愉快なことも恨んだり気に病んだりしない。そして他人のためにでなく自分の大いなる欲望のために、憎しみ・怒り・ねたみ・嘲笑・高慢といった有害な感情を遠ざけることに努める。そういう人間はいつもできる限り正しく行おうとするが、誰かに言われてでなく自分の愉しみでそうするのである。

事物を必然的なものと見るようになれば、自ずと神を愛するようになる。しかし、スピノザの神は人格神ではない。そんな神をどうやって愛せるのか。

全ての事物は必然的であると知るとき、我々は自分が感情の原因を勘違いしていたことに気づき、感情に振り回されることがそれだけ少なくなる。それとともに、幹事用は受動的であることを止め、能動フェイズに移行し、精神は自分の力に自信と喜びを感じる。ところで、「神への愛」は愛し返しを求めない無償の愛である。なぜなら、神は人間のように感情へと刺激されることはない。無償と言っても、既に喜びが与えられている。キリスト教の愛はあの世での報酬を約束している(例えば、天国と地獄)。これは裏を返せば、愛の酬いの約束が反古になるならば、好き勝手にしてもかまわないという話になってくる。これに対して、スピノザの「神への愛」は、褒美目当てとは無縁で、今正しく行う自分の強さに喜びを得ているなら、悩まなくも神を愛していることになっている。

このあと、スピノザは「永遠」と「至福」について語る。

「『永遠』とは、永遠なるものの定義のみから必然的に出てくると考えられる限りでの、存在そのものと解する」

永遠なるもの、「神」を定義すると、そこから必然的に、神の存在が出てき、すべての事物の存在が出てくる。これが自己原因と内在原因ということだった。事物の現実は一つしかない、ということと、神がすべてである、ということとが、ほかには何もない、という必然性において一致している。たしかに必然性というものは時間では説明できない。永遠というと、我々は始めも終わりもない無限の時間と考えがちだが、必然性には以前も以後もない。だから、必然的にかく存在すると考えられる限り、事物の現実がいまこんなふうにあるそのことが「永遠」である。スピノザが「必然的に出てくると考えられる限りでの存在」と言っているのは、つねに「いまここに」という仕方でしか指すことのできない現実的でリアルな存在のことである。スピノザの永遠は、無限に長く存在し続けることでもフリーズした無時間世界でもない。いまそこに現実に存在していることが永遠なのである。

スピノザは認識のモードを三つに区別している。

第一種認識(意見もしくは表象的認識) 主観的な経験知

第二種認識(理性的認識)  一般法則の形での必然性

第三種認識(直観知)

個物の認識。私というものはこの世にただ一人しかいない、それは神が唯一であるということと別なことではない。こういう必然性を、この私に即して直観し、いまここにこうしている私がリアルタイムに永遠であることを直観する。そういう認識モード。「この私」は間違いなくこの世にひとりしか存在しない。未来永劫誰も私に代わることができないので、これは時間に関係なく必然的な真理、私というものの永遠真理である。私は、自分がそれであるところのその永遠真理を、いわば内側からじかに生きている。あなたはあなたであり私はこの私であって入れ替えはきかない。これは時間に関係なく真理だから、その永遠なる観念がそれぞれ神の絶対的な真理空間の中に必然的になければからない。もしそうでなかったら、あなたがあなたとして、私が私としてここに存在しているはがはないのである。スピノザはここから決定的な一歩を踏み出す。精神とは、現実に存在する身体の観念のことであった。とすれば、「身体の本質を永遠の相のもとに表現する観念」は、永遠の相にもとに見られた精神自身のことであるということになる。

自分自身を二つの仕方で考えることができ、それに応じて世界も二つの仕方で見えてくる。

(1)一つは第一種の認識で、記憶や予測から自分像をつくりあげて、結局、世間的人間のひとりとして人生を送る。これは私が私であるという必然性も、その必然性がどこから来るかも知らないまま死んでしまうことになる.

(2)もう一つは第三種の認識で、自分自身を永遠の相のもとに考える。自分はこの世にひとりしかいないという必然性と、現実が一つでありそれは神であるという必然性とが同じ必然性だということを、証明の中で理解する。『エチカ』はさらに、いまそんなふうに理解できてしまうのは、汝が神の永遠なる無限知性の一部分であるからだ、という証明に進む。もし汝の知性が神の永遠なる思考様態の一部分でなかったなら、これら一連の証明を理解できているはずがない。これは証明している自分が証明されているという特異な必然性経験だ。実際に、我々はこうした二つの認識モードを混在させて生きている。それでも、混在の比率を変えていくことはできる。

今ここで既に永遠なのだから死のうがどうなろうが大丈夫。これは最強無敵の認識であって、最高の安心をもたらす。

「我々は第三種の認識において認識するすべてのことを愉しみ、しかもその原因としての神の観念がこれに伴う。」

そのわけは、第三種の認識は、神の本質によって存在を含むようなものとして自分を考えているからである。愛の定義により、原因としての神の観念を伴う喜びは神への愛に他ならない。

スピノザは人間の根源的不安が「自分を認めてほしい、いや認めさせてやる」という欲望からやって来ることをよく知っていた。しかしそれもお終いである。事物を永遠の相のもとに認識する人は、自分を絶対的に肯定する愛を世界にも自分にも監視セル。自分というものが唯一であることと神が唯一であることは簗時比類なき必然性で結ばれているという、目の眩むような栄誉を感じる。「栄光」という語はこういう映え映えとした「ほまれ」の意味である。聖書に散見する「神に栄光」という表現は間違っていないとスピノザは言う。神と同じ栄光に包まれ、永遠に大丈夫。この晴れがましくも絶対的な安心が、「至福」あるいは「自由」と呼ばれるもの、かねて使用道の求めてきた最高の幸福に他ならない。

もし完全な人間本姓というものがあるとしたら、それは「精神が全自然と有する一体的結びつきを知ること」だとスピノザは「企て」で予告していた。

今その全容が、見たこともない光景として我々の目の前にある。我々が日々見慣れている現実と寸分違わないらに、永遠の相のもとに進行する光景である。

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