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2012年5月 3日 (木)

渋谷克美「オッカム哲学の基底」(5)

第3章 エギディウス・ロマヌス等‘moderrni’達の量独立説に対するオッカムの批判

(一)エギディウス・ロマヌス達の量独立説

エギディウス・ロマヌスは、『キリストの身体についての諸定理』で「量独立説」を主張した。量独立説は、①量は実体や性質から独立し、それらと実在的に別なものとして存在するものであり、②量は実体を基体としてその内に存在し、更に量は実体と性質との間を媒介して、性質やその他の付帯性の基体となると主張する。すなわち量独立説に基づくならば、拡がりは実体に内属し、物体の性質を担っているものである。それゆえ、実体は拡がりそのものではなく、拡がりの基体なのであり、同様に性質も拡がりそのものではなく、拡がりを基体としてその中に存在するものである。例えば、この木や白さは自らによって分割可能なものなのでも、ある拡がりを持つものでもない。まさに「量」と呼ばれる、それらとは実在的に全く別なものによって、そのようなものなのである。

(二)量独立説に対するオッカムの批判

量独立説に対してオッカムは、外界に他から独立して、他と別なものとして存在するものは実体と性質のみであり、量は実体や性質と実在的に別なものではないと主張し、次の2点で批判している。量独立説によれば、形や色といった性質は量(拡がり)を基体としてその内に存在すると主張する。量が第一に実体に受け入れられ、その他の物体的諸性質は直接には量を基体として、その内に存在する。例えば、形や色といった性質は直接には量の内に存在するのであり、量を媒介にすることによってのみ実体の内に存在するのであり、量を媒介にすることによってのみ実体の内に存在する。このような量独立説の主張に対して、オッカムは次のように批判する。もし量独立説に従うならば、実体以外のものである量が、最初は白く、その後で黒いというように、反対なものを受け入れることになる。しかしこれは、実体のみが反対なものを受け入れると述べたアリストテレスに反する。

第2点目の批判として、オッカムはたとえ実体や性質と実在的に別なものとして量の存在を措定しなくても、実体は相互に隔たりを有する諸部分を持つことができ、それ自体で量的なものである。それゆえ、量は不要であると主張する。

オッカムは、このように量独立説に反対し、実在的には量は実在的に実体や性質から独立し、それらと別なものとして存在するものではないと主張する。実体は自らの実体的諸部分によって量的なものであり、性質も同様だからである。オッカムによれば、この方がアリストテレスの考えに従うものであり、それゆえ、アリストテレスの実体、性質、量という区分は、心の外のものの側の区分ではない。ではなぜ、それらの範疇は互いに異なるのか。その理由は、「量」と「実体」、「量」と「性質」は実在的に異なったものを表示しているのではなく、その表示の対象は同じであるが、その表示の仕方が異なっているからである。オッカムによれば、実体、性質、量の区分は心の外のものの側の区分ではなく、ものを認識する心の概念・言葉の側の区分なのである。

(三)「関係はparva resである」と主張するするmoderniの説に対するオッカムの批判

さらに関係も、実体や性質のように他から独立して存在するものではないが、しかし他から独立して存在する事物とは実在的に別な小さなもの・存在性として心の外に存在するとmoderniは主張する。例えば、彼らの見解に従うならば、実体Aと実体Bとの間に親子関係が成立している場合、これらA、B以外に、何らかの小さな存在性がAとBの内に存在していなければならない。

スコトゥスによれば、関係は、それを基礎づけ、それを構成する項である独立して存在する事物は実体A、Bと実在的に別なものとして、心の外に存在するものである。なぜなら、関係が成立することなしに、実体A、Bのみが存在することが、少なくとも論理的に可能だからである。例えば、この世界が唯一つしか白い事物が存在しないとしたら、この白い事物・実体Aは類似という関係を持つことなしに存在する。しかるに、一方が他方のものなしに存在することが可能ならば、一方のものは他方のものと実在的に同じではない。それゆえ関係的存在は、独立して存在し得るものである実体A、Bと実在的に別なものである。すなわち、スコトゥスによれば、関係(類似性、主人性、奴隷性、父性、子性等)は、実在的な付帯性であり、それらが実体A、Bに付け加わることによって、AとBとの間に関係が成立する。

これに対して、オッカムは①関係は、心の外に存在するものではなく、外界の事物を表示する第二の概念の名前である。心の外には、実体と性質以外のいかなるものも措定されるべきではない。それゆえ、アリストテレスが『範疇論』や『形而上学』で行っている実体、量、性質、関係、能動、受動といった範疇の区分は、心の外のものの側の区分ではなく、語あるいは心の中の概念の側の区分である。②従ってmoderniのように、量は実体や性質と実在的に別なものであり、また関係も実体や性質と実在的に別なものである。それゆえ実体、性質、量、関係、能動、受動といったように多くの、相互に全く別なものが心の外に存在すると考えるべきではない。③さらに、語が多数の範疇に区分される、それゆえ語に対する外界のものも多数に区分されると考えられるべきではない。これらのことから、オッカムは、実体と関係はそれぞれ実在的に別なものなのではなく、両者は実在的に同一なものである。なぜなら、外界に存在するのは実体と性質のみであり、moderniの主張するような関係的な存在というものをオッカムは認めないからである。オッカムによれば、実体の範疇に属する語と、関係の範疇に属する語は同一のものを表示するものであり、ただその表示の仕方が異なる。

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