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2012年5月21日 (月)

上野修「スピノザの世界 神あるいは自然」(5)

4.人間

「人間」とは何か。スピノザは「神あるいは自然の属性が一定の仕方で表現される様態である」という。

スピノザの師匠筋にあたるデカルトは、人間の精神を一個の「実体」と考えた。そこには思考と延長の区別が含まれ、それが二つの難問を残すことになった。一つ目は「観念」の問題で、表現が対象物と一致する時真なる観念と言えるのだが、デカルトのいう「観念」はあくまで「私の精神」の思考様態なので、主観的な思いが思考の外にあるものと一致できない。もう一つの問題は、「心身合一」で、人間は精神と身体が一つになってできているが、思考と延長には共通点がないので、精神と身体が一つになっているという状態を考えることができない。図らずも、『エチカ』第2部は、この答えになっていると考えられる。

スピノザによれば、精神と言う存在があってそれがものを考えている、というのではなく精神などなくても、端的に、考えがある、ということになる。問題は「真なる観念」そのものであって、誰が考えようと(人間であろうと、神であろうと)同じ真なる観念だ。だから、観念を真にする対象との一致は精神の能力によってでなく、観念そのもののあり方によって説明しなければならない。具体的には、こうなる。同じものが、対象とその観念と両方の位置で表現されている、そう考えればよい。言い換えると、同じ事物が、真なる観念の中に対象化されてあるあり方と、事物自身の属性のもとで表現されるあり方、その両方のあり方をしている、考える。つまり、別々のものを精神がどう合致させるかという発想の逆を行って、事物は二つの属性のもとに二重に存在するのだから、一致するのは当然だ、と考える。

『エチカ』第2部は、この構造を説明する。神は無限に多くの属性を持っていて、そのそれぞれの属性で「我は永遠無限なる唯一実体なり」と告げているのだった。同じ実体がすべての属性のもとで表現されているのだから、「思考する実体と延長した実体とは同一の実体であって、それがときにはこの属性、また時にはかの属性のもとに理解されるだけ」である。すると、実体にいわば貼り付いている様態についても同じことが言える。「延長の様態とその様態の観念とは同一の事物であって、ただそれが二つの仕方で表現されている」、ただそれだけのことである。

例えば、台風を考えてみる。個々の台風は「台風18号」と名付けられるように、一つの個体である。その間、台風を台風として存在させ・作用させている無数の物理的な原因があるのは間違いない。我々は到底その原因を全て辿ることはできないが、自然の方では全て辿りきって現に台風を存在させている。そして原因があるということは、なぜその台風が存在しているかの説明がある、と言うことである。たとえ、我々には無理でも、自然の方では説明が尽くされていて、台風の存在が現に結論されている。この結論、これが現実に存在する台風についての「真なる観念」である。自然の中に台風の真なる観念が生み出され、猛威を振るう台風と「同じものの異なった表現」になっている。つまり、「観念の対象となっている事物は、観念が思考の属性から出てくるのと同一の必然性を持って、それ自身の属性から出て行き、かつ結論される。」(定理6)つまり、有名な「並行論」だ。

こうなっていれば、真なる観念が対象と一致しなければならないのは当然ことだ。神が制作者でないことも、はっきりする。台風を生じさせる神の力能と台風を知る神の力能とは厳密に同等で並行しており、一方が他方に先立つということはない。神は絶対的に無限な存在だから、思考と延長以外にも互いに並行する無限な属性は無限に多くある。

結局、同じ事物Xが全属性にわたって同一の秩序と連結で、しかも属性ごとに異なる仕方で表現され、そのうちの一つの表現形式がたまたま思考であるということになる。思考属性は「何かについての思考になっている」ことだから、Xのすべての表現について観念を生み出しているだろう。しかし、正確には、観念も思考の世界の事物である。観念そのものについても「これはしかじかの観念である」という観念が生成していなければならない。これが求められていた構造であった。思考属性だけ突出して見えるが、それは思考属性が「何かについての考えになっている」という性質なのでしかたがない。延長属性が「物質的広がりになっている」という性質であるのが仕方がないのと同じである。この図式の中で、思考属性の無限様態、すなわち「無限知性」はすべての事物についての真なる考えでできており、無限知性の中にその真なる観念がないような事物は一つとしてない。全体としてそういう構造になっている。これを「真理空間」と呼ぶ。すべての観念がその対象と一致するような、絶対かつ唯一の真理空間。その別名がスピノザの「神」なのである。

人間が真理を知り得るなら、この真理空間を説明しなければならなんない。人間も台風と同じである。Aさんの身体があるなら、その真なる観念も無限知性の中にある。問題は、この「身体の観念」が人間の「精神」だとスピノザが言っていることである。つまり、人間の身体は台風と同じく延長の有限な様態であり、他の様態から区別できる「個物」ないし「個体」である、ということだ。大気中の様々な粒子が局所において協同し、すべてが同時にひとつの結果の原因のようにふるまい始める時、そこに台風がある。同じように、様々な個体が一定の協同関係に入るとき、そこに私の身体がある。一般に、下位レベルで物質諸部分が協同してある種の自律的なパターンを局所に実現しているとき、その上に上位の個物ないし個体特性がスーパービーン(併発)している。同じことはそれら下位レベルの構成諸部分のそれぞれにも言えるので、それらの部分なっている個物も皆、さらに下位のレベルの諸部分の協同パターンの上にスーパービーンしている。と続き、こうしてスピノザは、物質延長の全面が無数の階層を持った無限に多くの個体特性で覆われていると考える。無限知性の中にある「人間身体の観念」もしかじかの人間のこのような個体特性を内容としていると考えられる。

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