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2012年5月13日 (日)

上野修「スピノザの世界 神あるいは自然」(2)

2.真理

目標が定まったなら、当然探求の方法が必要となる。ここで、スピノザが言う「方法」は彼独特といっていいもので、哲学の体系構築の方法というよりは、哲学へ向かう道、あるいは道そのものの探求と発見の過程だと考えた方が良い。その探求は、スピノザの場合、知性自身の浄化のプロセスの一つとなっている。

古来、哲学は真理を獲得するための学問方法を熱心に論じてきた。ちゃんとした方法が発見されれば、真理について確かなことをいうことができる。しかし、そんなやり方では真理は見つからないと、スピノザは言う。例えば、方法Mで真理が獲得できていると確かに言えるための方法Mがなくてはならず、そしてこの方法Mがそういうことを確かに言えるための方法Mがなくてはならず…というふうに無限に続く。これでは決して真理の認識に到達しないであろうと。

最初の「ちゃんとした方法が発見されるまで真理について確かなことは何も言えない」という最初の仮定に間違いがある。とすれば、ちゃんとした方法に差し当たって我々は真理を確かに知っているとしなければならない。それゆえ、スピノザは、こう言う。真なる観念の存在が、真と言えるための規範を方法に与えるのであって、その逆ではない。真理を真理と言わしめる規範はすでにそこにある。だから、この規範解明が、そしてそれだけが方法に具体的な実質を与える。方法は、真理から自生する。スピノザは、この規範の解明を進めていく。

「真理」とは何か。スピノザは「真」と言う言葉の使い方から話を始めている。「真」と言う言葉は事物の性質ではなく、もともと語りについて言われる言葉である。語られることがそのとおり実際に起こったのならそれは本当の話、すなわち真であり、もし起こらなかったら偽、これがもともとの意味であった。つまり、「真」と言われうるのは、事実と一致するからである。スピノザは、このような対象との一致を観念が真であるための「外的標識」と名指す。しかし、これだけでは不十分だ。実際には観念は一致する対象が存在しなくても真になれるし、反対に、一致しているからといって直ちに真だというわけでもない。とすれば、真であると言えるための標識は、思考の外のあるものとの関係ではなく、むしろ思考そのものの内にある。スピノザはそういう内部にある何かリアルな標識を「内的標識」と名付ける。

『知性改善論』の「虚構された観念」の分析が内的標識の解明に充てられている。スピノザは、虚構がどのような事柄について可能なのか、その限界をはっきりさせる。不可能なものを考えようとすると必ず矛盾をきたすようなものは虚構できない。また、必然的なもの、つまり別様であり得ると決して考えられないものは虚構できない。すると、虚構は、思考対象が不可能とも必然的とも知られていない間だけ生じうる。だから、虚構が生じうるとしたら、それは「可能なもの」についてでしかない。ここから、真なる思考を絵空事から区別するリアルな何か、「内的標識」が明らかになる。それは語られている事柄の必然性にほかならない。このことを知るために、思考はその思考自身以外に何も必要としない、それに事実との一致(外的標識)はいらない。むしろ事態は逆で、こういう必然性を我々の思考が知っているからこそ、一見偶然的に見える経験的事実についても何ほどか確かなことが言えるのである。ここから「偽なる観念」が何であるかも分ってくる。事柄の不可能性が、気づかれていない場合、それが偽なる観念である。だから、虚偽を矯正するには虚構を矯正するのと同じ規範を以ってすればよい。偽なる思考は自分では虚偽だと気付かないが、真なる思考によって勘違いは解消する、こうして、真なる観念が、探求の従うべき規範を与えてくれる。

(1)存在について。必然的としか考えられない事柄については絵空事はあり得ない。従って、もし存在しないと考えることが本質に矛盾するようなものが在れば、それは必然的に存在していなければならない。

(2)本質について。「樹木がしゃべる」のような事物の本質に関する絵空事は、はっきりしない観念の合成からしか生じない。必然的に別な風にあり得ないとしらけるごく単純な事物の観念から合成してそのようにことが言えるかどうかを調べることにより真偽が分かる。

(3)これらを一言で言うと、自然を認識すればするほど、それたけで我々は勝手な想像がむずかしくなる、ということである。それゆえ、「できるだけ抽象的な進み方を避けて、できるだけ早く自然の第一の要素から、言い換えれば自然の源泉と根源とから出発する」こと。これが重要である。

この(3)の「自然の源泉と根源」を理解するためには、知性が何をしているかを考えることが必要だ。概念とは何かについての思考であり、それ自体で見ると一種の「感じ」だとスピノザは言っている。これまで、真なる観念がある種の必然性の知覚だと言うことを見てきたが、この必然性の思考はどこで感じられているだろうか。

例えば、「半円が回転すると球が生じる」という命題は、「半円が回転する」という原因のところは、スピノザが言うには、好き勝手な虚構・想定である。半円がどうしても回転しないといけない必然性はない。こういう原因の虚構は非常に単純な観念からできているので、この虚構自体をベな風に勘違いする余地はない。だから結果を間違いなく導くことができる。すなわち必然的に球が生じる。これが球の真なる概念である。この必然性は、語られている事物である球を対象として成立させる必然性である。この必然性を感じているということが、語られている事物について真なる観念をもっており、そのことを知っているということだ。だから、この必然性が「内的標識」である。スピノザは、これを知性が実はそれ自身で充足した巨大な事物思考の一部分であるという可能性を示している。それは、我々が一切の事物をあるがままに知覚しているある巨大な思考する存在の局所的な一部分である、ということだ。もしそうだとしたら、我々が真偽を区別して感じる知性を持っているという事実も説明できる。そういう巨大な思考のあるものが全部そろった完全な概念として我々の精神を構成しているとき、我々は真なる観念の原因と結果の必然性を感じており、巨大な思考のあるものが部分的にだけ我々の精神を構成している時、我々は必然性の感じを失って非十全な観念を感じている。これが「自然の源泉と根源」だ。

知性とは何か。それは事物の持っている必然性を志向の必然性として感じる何かである。単純な事柄については、何の前提もなしにいきなり、真なる観念を持っていると知っている。物事を必然として捉える。必然と言うのは、将来も別様ではあり得ないと言うことだから、「永遠の相」のもとに捉えるということである。それは、必然性を捉えるためにさまざまな近接原因を想定する自由度を持っている。それがアクセス可能な完全概念には内容の大きさに様々なものがあり、その概念は自然の源泉と根源を表現する概念である。

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