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2012年5月 7日 (月)

上野修「スピノザ 無神論者は宗教を肯定できるか」(1)

第1章 『神学・政治論』は何をめぐっているのか

51bzyyeyz9l__ss500_ 『神学・政治論』に対する攻撃は、当初から激しかったが、そのうちでも一番激烈だったのは反動的な神学者からではなくて、当時もっともリベラルな「デカルト主義者」、哲学の自由や言論の自由の論陣を張っていた人々からのものだった。そして、禁書処分を下したオランダ政府はリベラルな市民政府だった。また、スピノザは民衆が迷信から目覚めるなどとは思ってもおらず、警戒すべき存在として捉えていた。だから、『神学・政治論』は啓蒙主義的な著作と単純に言えない。それには、当時の神学・政治論的な状況を抑える必要がある。

当時のオランダは、海に向かって開けた自由と寛容の国で、その理念のもとで、いろいろな宗派や民族がモザイク状態で共存していた。スピノザのようなユダヤ人も、受け入れられていた。一方、新進の思想を引きつけ、その発信拠点でもあった・そこに自由の実験のチャンスと試練があった。他方、過度の自由を敵視する人々も存在していた。政治的には、実利主義的な理由から共和国政府の寛容政策を支持する「共和派」と、強権的な社会の締め付けを望む「総督派」の緊張関係にあった。民衆は、総督派を大方支持していた。

スピノザが『神学・政治論』の対象としていたのは、リベラルな知識人、「デカルト主義者」たちだった。彼らは、総督派支持の神学者たちとの激烈な論争に巻き込まれていた。哲学は神学の婢ではないと論陣を張っていた。

デカルトの科学的合理主義は早くからオランダの大学に浸透していた、これに対して危機感を抱いた神学者たちは当局に働きかけデカルト哲学の締め出しを図る。両者の対立は共和派と総督派の対立でもあって、大学の枠を超えて国中を巻き込んでいき、政府の寛容政策そのものが問われる騒ぎに発展していく。形式的には神学者からの「不敬虔」、つまりデカルト主義は聖書に反するという形をとった。そのため、「理性は聖書に反するか否か」というデカルト自身が慎重に避けていた問題が表面化していた。デカルト主義者たちは、これに対して「神学と哲学の分離」を主張した。哲学は合理的に自然を追求しようとしているだけだ。聖書は神の言葉であり、自然もまた神の言葉によって創られたもので、「真理は真理に矛盾しない」のだから、理性の発見する「自然の真理」が「聖書の真理」を損なうはずがない。という棲み分けをしていた。しかし、それを突き詰めると、聖書の真理と哲学の真理が、両方とも真理であるなら矛盾しないはずで、矛盾しないように聖書をどう読めばよいのか、彼らは、それに答えることを求められるようになって行った。例えば、聖書には預言者の証言という尋常でない現象が出てくる。これを合理的思考で説明するわけだ。比喩的といっても、どこまでが比喩的か線を引くことは恣意的になってしまう。そのため、「神学と哲学の分離」は混迷する一方だった。この中で当局の見解は、哲学の自律は尊重すべきだが、聖書と両立しない場合には神学に譲るべしという、煮え切らない玉虫色のものだった。そのような状況の中で、デカルト主義に急進的な者が現れる。例えば、メイエルの『聖書の解釈者としての哲学』という著作は、聖書のどこまでが隠喩かをきめるのは哲学であると主張する。これは哲学的真理が全てという結論に至るものだ。本流のデカルト主義者たちは急進化を恐れ、この本の禁書処分を当局に願い出る。しかし、彼等には急進化を抑え込む論理がない。それが神学者たちを気色ばむことになる。

一方、スピノザは、そのような急進化との関係を疑われ始める。デカルトの「良識」が、どういうわけか「不敬虔」に転化してしまう。スピノザは急進主義の隠れた中心人物のように「無神論者スピノザ」の名が囁かれる。『神学・政治論』の執筆動機は、自由に賛成していたはずのデカルト主義者たちが、動揺し危惧を抱き始めている、つまり、理性の自由を恐れ始めている人々に対しての、呼びかけだった。

「不敬虔」という事に対して、何を以て不敬虔と断じることができるのか、びくびくする前に、明確化してしまうことが必要だ。そのための根拠は聖書そのものにある。だから聖書の言葉を吟味する必要がある。

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