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2012年6月10日 (日)

清水禮子「破門の哲学 ~スピノザの生涯と思想」(3)

3.神及び人間について

第一部第二章でスピノザは神の性格について四つの命題を提示する。

(一)限定された実体は存在せず、すべての実体は自己の類において無限でなければならない。すなわち、神の無限な知性のうちにおいてはいかなる実体も、それが既に自然の中に存在するよりも一層完全であることはできない。(二)二つの等しい実体は存在し得ない。(三)一つの実体は他の実体を産出することは出来ない。(四)神の無限な知性のうちには、自然の中に形相的に存在する以外の如何なる実体も存在しない。

この中で(一)の後半と(四)は『短論文』に特徴的と言える。これらは、神の知性と自然の事物との関係について語っているところで、神の知性のうちにあるものと自然とは、存在の類に関してもその完全性に関しても全く等しいということが、特別に強調されていたと考えられる。

このような神と自然とは等しく、神の外側には何も存在しないという主張から引き出せる第一点は、神の現実性ということであり、第二点は、「神なしにはいかなるものも存在し得ず、また認識され得ない」ということである。第一点に関して言えば、神と自然とが別の存在ではなく、神の知性のうちには、未だ創造されぬもの、一層完全なものは何も残っていないとすれば、神は「既に」「現実に」自然として発現していることになるからである。神は決して隠れた存在ではなく、現に直接人間の前に存在している。このように、現に「現実全体」として発現している神は、言葉の本来的な意味で極めてリアルなものだ。また、第二の点は、人間を取り巻く多様な事物、人間の精神を満たす多様な認識の悉くは、神という一つのものを原因として根拠として成立するということだった。すなわち、神が現実全体であり、ただ一つリアルで真実なものである以上、一切は物的であろうと心的であろうと悉く、この神に帰属することになる、とスピノザは書いている。神が他のものから生じることはあり得ないのと同様に、神の認識が他のもの、つまり神から派生した何らかの結果の認識から導き出されること不条理であり、神は端的にそれ自身において認識されなければならない。あらゆる個物の総体であり、同時に、個物を貫き動かしている最もリアルなものが、何よりも先に認識されなければならない。それゆえ、一切の個物は神の中にあり、神はそれらの個物の「内在的原因」である。しかも、神はそうした一切のものを自己の本性の必然性から生ぜしめた。それゆえ、現実の中には、偶然的なもの恣意的なものは何もなく、すべては必然的に現われ現にある通りに存在する。

また、第二部では、神に対して人間は様態であること、有限であることを強調している。スピノザは、人間が自然の微細な一部であること、「本性弱小」な存在であることを繰り返し語る。この時代のスピノザは、後年と比較して一層強く人間を無力なものと感じていたと言える。そのことは破門によってコムニカチオを断たれ、何の拠り所もなしに独り生き続けなければならなかったこの時期の彼の生活と無関係ではない。

4.認識の価値

スピノザは、このように無力で脆弱な人間の幸福を「合一」に求める。自己以外の何ものかと融合することが、自己を保ち、高め、安らぎを齎す道とされる。勿論、合一の対象としては種々の存在があり得るが、結局のところそれは神でなければならない。スピノザにとっての合一の目的というのが、対象の完全性を分かち持つことによる自己の強化である以上、神以外の存在、つまりそれ自身可滅的な事物との合一は、無益な愚かなことだからである。人間にとっての最大の幸福は、最高に完全な存在と合一し、その完全性に与ることであり、幸福追求の最終目標は「神との合一」である。この合一は「愛」によって起こるもの、あるいは「愛」と同じ事態である。けれども人間は自分では知らないものを愛するわけにはいかないから、愛を引き起こすものは認識である、ということになる。人間にとって最大の幸福である神との合一の可能性は、神の認識の可能性に還元される。このように認識の問題と向かい合う時、正しさの点では区別されなかった理性と知性とが価値の上では区別された理由が、ここで明らかになってくる。

神の認識という場面では理性は無力である。それは、神は、存在に関してと同様、認識においても他の一切のものの第一原因であり、したがって、すべてに先立ち、しかもそれ自身において認識されることを要求するものであった。しかし、理性の本質は、何らかの前提に基づく推論にあるのだから、いかなる前提をも持たぬ神を認識することは、この種の認識にとってもともと不可能なのである。また、神は何ら隠された存在ではなく、現実全体として発現しており、直接に認識され得るものであるから、かにも敢えて面倒な推論の手続きを踏んで捉える必要もない。さらに、認識の対象を神に特定しないで、字仏一般に拡大して考えてみても、理性の認識が直接的でないことが合一という目的には役立たないことが分かる。スピノザは第二部第四章で、理性は理由に基づく推論であることを強調し、「この信念は、或る事物が何であるべきかを我々に示すけれども、そのものが現実に何であるかを示しはしない。そして、これは、この信念が我々を信念の対象と決して合一させることのできない所以であると述べている。」この理性が幸福の追求において無力であることが明らかになり、代わりに知性が幸福追求の大きな使命を担うものとして現れて来る。

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