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2012年6月17日 (日)

清水禮子「破門の哲学 ~スピノザの生涯と思想」(9)

8.感情の問題

スピノザは『エチカ』第三部の初めの部分で、「感情」を定義して次のように語っている。「感情とは、身体の活動能力そのものを増大あるいは減少し、促進あるいは阻害する身体の変化、及びそうした変化の観念であると思う」。ところで、『エチカ』では感情は、身体の活動能力の増減と関連して扱われている。身体の活動能力は「身体の存在力」と言い換えられ、生命力の様なものを意味していると考えられる。スピノザがこうした生命力の増減を感情の基礎と看做すのは、彼の所謂自己保存乃至コナトゥスを前提にした上のことと思われる。ちょうど運動をしている物体が、他の物体によって妨害されぬ限りは自己の運動を持続して行くように、すべての事物は、そして人間も、外的原因に阻止されることのない限り、あくまでも自分の存在を維持しようと努める傾向を有し、この傾向こそ、総じて事物というものの最も基本的な性質であり、それゆえ、人間における身体の活動能力の増大、減少ということが、この基本的な傾向の実現として、あるいはこれに抵触するものとして、特別の意味を持ってくるのである。もっとも、活動能力の増減というのが、単に身体的な現象にとどまるのではなく、感情という精神的な現象と結びつくためには、身体的な変化が精神の場合に移し替えられることが必要であった。何らかの外的な変化に刺激されて身体の状態が変化すれば、それとともに、精神の状態にもある変化が生じるということである。

この感情については、そこから他の一切の感情が派生する「基本的感情」または「原始的感情」というのを考え、「喜び」、「悲しみ」、及び「欲望」の三つを上げている。「喜び」と「悲しみ」というのは身体的な編名に由来する感情として捉えられ、外的な原因によって身体の活動能力が増せば、精神の思惟能力も上昇して「喜び」が生じ、反対に、何らかの外的な原因によって身体の活動能力が減じれば、精神の思惟能力も凋落して「悲しみ」が生まれる。人間の幸福は、先ず差し当たり、「喜び」という系列の感情のうちに求められることになる。

しかし、人間の幸福が「喜び」という感情のうちに求められるとしても、外的要因による身体的な変化に由来する「喜び」に関して、『エチカ』のスピノザはあまり価値を認めていない。人間は自然の中にある自然の一部分であり、外的事物の力は人間の身体的な能力をはるかに上回り、超えているからである。そうなると、人間は、自ら秩序とは異なる外的世界の秩序に服従しも否応なく生じてくる身体的な変化によって、時には「喜び」の感情に執拗に捉えられ隷属の状態繋ぎ留められることになる。このような継続状態にある人間は、自己自身の内的決定とは無縁であり、自らの秩序に従い自らの力を用いて「喜び」を得ることは出来ず、自己保存とは反対の方向に赴いてしまうのである。スピノザは、外的事物に刺激されて生ずる身体的な変化と結びついた感情は、たとえ「喜び」の系列に属するものであっても、精神内部の或る混乱と看做し、決して重要性を認めない。

そして、スピノザは身体的変化に基づく「精神の受動」しての感情とは別に、「能動」としての感情というのを考え、こちらの方に真の価値を認めようとしている。人間精神が、外的な原因に依存することなく、自己の本性と秩序のみに従って能動的に働けば、その働きの自覚からは、「自己自身に対する満足」という「喜び」の一種が生じると説かれる。精神の働きというのは専ら、精神が自らの本性と秩序に従い、自らの力を用いて認識を行うことを意味する。人間精神自身の働きに由来するこの「満足」という「喜び」の一種は何らかの外的な原因をも持たず、外的な原因によって乱されたり左右されることもないから、最も純粋な、最も安定した感情であり、スピノザは、正にこうした類の喜びの中に、人間の究極的な幸福を見出そうとしている。そして、『エチカ』は、この能動感情の問題を軸にして一転し、認識及び感情の分析を離れ、幸福論の領域に入っていくことになる。

9.『エチカ』における幸福

『エチカ』における幸福の問題と関連して先ず第一に気づくのは、ここでの幸福が、十全な認識活動から派生する能動感情としての喜びに求められたことのうちには、『短論文』以来の発想、つまり、人間の幸福は認識を通路としてのみ獲得されることが出来るという発明乃至原則が、依然として生き続けているということである。ところで、認識による幸福の獲得と言う発想は、1656年の破門によって家、財産、人間関係もすべて失った状態からスピノザ哲学が始められたこと、普通、人間の幸福の条件と看做されるものの一切を欠いた状態に投げ込まれたスピノザが、そうした状態から早急に脱出することを求めて哲学を始めたという事情に根ざすものであった。そして、『エチカ』の場合には、さらにもう一つの事情が加わり、一層強化された。神への愛には、富、名誉、快楽などの現に享受している「本性上不確実な善」を放棄せねばならないと知りながら、所有欲、名誉欲、官能の欲望から俄かに抜け出すことが出来ず苦しみながらも、そうした問題を考えている時は、それらの欲望から遠ざかることが出来た自らの体験を語っている。何かを懸命に考える時に精神が体験する緊張感というのを、ある確かな手応えのあるものと感じ、そうした手応えを一つの積極的な価値として認め、人間の幸福をそのような価値の延長で捉えるようになった。従って、『エチカ』が人間精神を主体として進行する知的認識を幸福に通じる道と看做しているのは、総じて認識と言うのを、特別な財産や地位、才能、友人に恵まれぬ普通人にとって唯一可能な幸福への道と考えざるを得なかったかつての事情の外に、認識の働きに伴う緊張感乃至ある手ごたえを、彼が一つの大きな価値として認めるようになったという事情も新たに加わったうえでのことと言わなければならない。

『エチカ』第三部定理七において、感情の分析の出発点となった「自己保存の努力」を「ものの現実的な本質」と等置している。「各々のものが自己の存在を維持しようと努める努力は、そのものの現実的な本質に他ならない」。このような人間の「現実的な本質」が解放されるなら、当然人間の心身の能力は増大し、「徳」も高められていく。ここでの「徳」は、幸福を得るための個々の倫理的資質のことではなく、「精神の逞しさ」そのものであり、「幸福は徳の報酬ではなく、徳それ自体である」とといた。その結果、「人間の自己保存の努力」、人間の「現実的な本質」、「能力」、「徳」乃至「精神の逞しさ」の悉くは「幸福」に収束し、これらは人間が能動的に作用することを前提としてのみ成立し、人間の能動的な作用とは、十全的な認識に外ならず、十全的な認識は、第二種及び第三種の認識を意味するから、人間の「幸福」はただ専らこれら特定の認識を介して獲得されることになる。

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