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2012年6月 9日 (土)

清水禮子「破門の哲学 ~スピノザの生涯と思想」(2)

.開かれた円環

.『短論文』成立の背景

破門後のスピノザの生活は、物質的にも精神的にも決して恵まれたものではなかった。アムステルダム市からの退去命令さえ出て、スピノザは南方10キロのアウデルケルクという村へ行く。ここは、スピノザの出自であるポルトガル系ユダヤ人の墓地がある村で、彼らにとって、原点のような村であった。ここでスピノザは数か月を過ごす。ここに過去との訣別の意向を読み取ろうとする論者もいるが、筆者は、生きたユダヤ人たちすべてとのコムにカチオを奪われた彼が、せめて使者たちとの間に何らかのコムニカチオを見出そうとしたと考える。アムステルダム市からの退去命令が解かれると直ぐに戻り、一隅で細々と暮らしていくことになる。

この時期に最初の著作『神、人間、及び人間の幸福に関する短論文』(以下『短論文』と呼ぶ)が成立したのは、この時期だった。自分自身、破門により、精神的にも物質的にも、拠り所を悉く失った不安定な状態の中で哲学を始めたためであろう、スピノザという人は、生涯を通じて、真理そのものの問題よりも人間の幸福、人間にとっての善という問題の方に大きな関心を寄せ続けて行く。最初の著作であるこの『短論文』においても、神、人間の身体、精神、感情など、さまざまな問題が扱われながら、そうした種々の考察の一切は、幸福論のための予備的作業として、人間の幸福に関する考察の中に吸収されていくことになる。スピノザの関心が常に人間の幸福に向けられていたことと並んで、もう一つ顕著なのは、彼の考える幸福というのが認識を通路としてのみ獲得されるものであるという点で終始態度を変えていない点である。

2.臆見、理性、知性、

『短論文』第二部第一章において、人間の認識に三つの種類を区別している。第一は「臆見」と呼ばれる。これは、「経験」及び「伝聞」から生じ、内容的には単なる思い込み、不完全な事例からの帰納、感覚的知覚等を含み、それゆえ確実性に欠ける認識として、ネガティブに規定されている。この不確実の理由として、例えば「経験」については、そこかに生ずる知識が変わりやすく不安定であり、知識が変化すればその度毎に、人間は「簡単に動揺すると語られていることから、その不確実性というのが、事物を全体として捉えぬこと、断片的にしか受け取らぬことに由来する。また、第二の認識は「理性」の認識で、「信念」と呼ばれる。それは「様々な理由に基づく強力な確信」であり、推論的な認識を意味する。主観的な思い込みという意味で、臆見が「単に信念からの認識」と呼ばれる場合には、「真の信念」という名称によってそれと区別されているように、何らかの客観的根拠を有する認識、したがって確実であり、真理を伝える認識として扱われている。これに対して第三の認識は「知性」の認識で、「明晰な認識」とも「真の認識」とも呼ばれている。「事物それ自身を感じ、享受することによって」生ずる。それは、根拠を用いず、推論に頼らず、「直観によって一挙に」対象を把握する具体的な直接的認識であり、かつ確実な認識である。これに三つの認識のうち第二と第三は理性と知性であり、ともに正しい認識である。けれども、スピノザは別の個所で、真理と虚偽の区別は観念的なものではなく、人間に生活に大きな影響を及ぼすものであることを強調し、真理によって人間はいかなる「利益」を得るのか、虚偽によっていかなる「不利益」を蒙るのかという問いを出し、真偽の問題自体をすでに実生活上のある利害と結びつけて捉えているように、認識の正しさということも決して自己目的的なものとしては考えていない。正しい認識は、単にそれが正しいということのために価値と意味を持つのではない。そは、価値と意味。それは、ある利益、つまり幸福追求というコンテクストの中で証された価値と意味とによって初めて、それが真であるという特質が声明を持つようになる。こういう観点から眺める時、理性と知性とが、価値の上では大いに違うものであることが明らかになってくる。

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