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2012年6月24日 (日)

清水禮子「破門の哲学 ~スピノザの生涯と思想」(11)

11.神の認識と自己愛

「神の認識」が直ちに「神への愛」となり、そのまま「神との合一」に連なって行った『短論文』の場合とは異なって、『エチカ』における「神の認識」乃至「神を認識すること」というのは、他の諸事物の認識と同じように、決して人間を一挙に幸福に拉致するものとしては考えられていない。『エチカ』のスピノザにとって「神の認識」は、「神との合一」ではなく、また、神の偉大や完全性を示すことによって人間を陶酔に誘い、人間に「永遠の憩い」を齎してくれるものでもない。かぜなら『エチカ』におれる「神の認識」から『短論文』には見られぬある曲折を経て生ずるものは、基本的には、神を認識し得る「自己自身に対する満足」であり、スピノザ自身が行っている等置によればこの「自己自身に対する満足」というのは、「自己愛」に他ならないからである。つまり、自らの能動、自らの自発的な作用を意識する時、人間は自分自身に満足し、喜びを覚え、その喜びの原因を成す自分自身を愛するのであるが、最高の存在であるがゆえに成就することの最も困難な神の認識、精神の最大の能動を要する神の認識からは、当然、自分自身に対する最大の満足、最大の自己愛が生まれることになるからである。

神が人間にとって最大の幸福の条件であるのは、そのように永遠であり、無限であり、完全であり、またそのように複雑で多様な内実を有するが故に、その認識において人間の精神に最大の働きの契機となるからに他ならないのである。

スピノザによると、一切のものは神のうちにあり、存在に関しても、認識に関しても、究極的には神を原因としているので、人間の精神の能動的な働きから生ずる喜びは、その直接の原因として人間精神の観念の外に、この個的な人間精神の原因である根拠である神の観念を伴い、人間精神の能動的な作用の自覚からは、人間精神の「自己愛」とともに「神に対する精神の愛」が生じると言われる。人間精神の最大の働きである神の認識は、人間精神の自己自身に対する満足、自己自身への愛を介して、人間精神をその一部として含む神に対する愛へと発展していく。そして、「神の知的愛」は結局、再び人間精神の個的な能動、人間精神の個的な自己愛に帰着する。

幸福論という場面において、かつては、神そのものを直に享受し、神との合一を果たすものとして自己目的的に求められていた神の認識が、人間の知的作用の極点であるが故に人間自身の最大の自己愛を生む、一種の契機とし求められるようになったという事実が象徴的に示すように,『エチカ』を支配しているものは、『短論文』とは全く異なって。外に背を向けて閉ざされた態度である。神をはじめとする自己以外の存在との融和、合一、すなわちコムニカチオは、『エチカ』のスピノザにとっては、最早、人間の幸福の理想ではない。向こう側から顕現して来る対象を受動的に待ち、対象の側の圧倒的な力によって合一の中に連れ去られることも、最早スピノザの望むところではなく、幸福への道となる認識の成立ということも、外的な存在からの贈り物とは考えられていない。むしろ、人間は、そうした外的な存在からの侵入を意識的に拒否し、自分自身に固執し、自分自身のみを頼りにすることによって、心の平和を得ることが出来るのである。認識というのは、自分自身のとっての明証性の意識を手引きとし、自分自身の知的秩序に従って行われるべきもの、自分自身がその成り行きを見守り,その成否を見定め、見届け、そして、その責任のすべてを負う、自分自身の働きでなければならず、そうであってこそ初めて、認識という働きの反省的自覚から生ずる満足や愛も、真に自分自身のもの、外的な世界の影響によって乱されることのない安定したものであり得るのである。

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