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2012年6月27日 (水)

清水禮子「破門の哲学 ~スピノザの生涯と思想」(14)

6.理性的認識と最高認識

『知性改善論』における第三の認識は、理性的推論である。この種の推論的認識について、スピノザは、結果から原因を推論する場合と、普遍概念から結論を導く場合との二つの型を区別している。このうち第一の型は、明らかに良い認識の資格を備えてはいない。何故ならば、結果に基づいて原因を捉えようとする時には、「我々は、原因に関して、結果のうちに観察する以外のものは何も理解しない」からである。これに対して第二の型については、それが齎す認識の真理という点では、必ずしも不確実なものとしては扱われていない。けれども、仮に誤謬の危険がないとしても、普遍概念操作に基づくこの種の認識は、『短論文』の場合と同様、神の直接的認識を求める『知性改善論』のスピノザにとって、あまり大きな意味を持つはずがない。

そして、第四の認識、最高認識、については次の三つの点が明らかである。その第一は、ここにおいても直観が最高認識の重要な機能として前面に現われているということである。すなわち、認識の分類でスピノザが語るところによると、この第四の認識には、事物を「その本質のみによって」知る場足と、「その最近原因の認識から」知る場合とが含まれているが、このうちの初めのものが知的操作を媒介とせずに事物に直接家向き合う認識であり、直観であることは明らかである。直観は、他の如何なる認識にもまして重要な認識様式なのである。

けれども、『知性改善論』の最高認識に関して明らかな第二の点は、こうした直観的な性格は、確かにここでの最高認識の主要な性格として前面に現われてはいるけれど、それは『短論文』の場合とは異なって、『知性改善論』の最高認識の全体を覆うものではないということである。スピノザが直観的な機能と共に第四の認識に帰属させている「最近原因から」の認識というのは、直観そのものではない。勿論、そうした認識というものが、直観によって知られた事柄に直接根ざしていること、したがって直観的な認識に固有の明証性、およびある種の力を豊かに分かち持ちことが当然考えられている。しかし、こうした認識は、事物そのもの向い合うものではなく、他の認識を媒介としており、直観とは言い難い。それは、ごく単純であっても観念の或る操作を含み、一種の展開に属する。つまり、『知性改善論』においては、原理的なものは直観によって、原理から派生するものは原理との直接的な関係の中で認識されることになったのである。『知性改善論』の最高認識がこのように無垢の直観であることを止め、観念の或る展開を含むものに変わったことは、この時期のスピノザに固有な、知的レヴェルで他の存在と浸透し合う要求、及び、そのためには必ず、認識というのを他のひとびとにとっても「理解可能な」もの、実行可能なものとして説く必要に促されてのことである。何故ならば、手続きを一切含まない純粋な直観というのは、何と言っても、その行われ方の説明の困難なものであり、他の人間がそれに「与り得る可能性が著しく限られてしまうから、そこで、したがって、直観に頼る場面を縮小し、観念の展開という要素を最高認識のうちに加える必要が生じたのであった。

最高認識についての顕著な第三の点は、この認識が、『短論文』における「知性」とは異なって、それ自身で対象を「享受」したり、対象と「合一」したりする性格、すなわち普通の意味での認識の枠をはみ出す性格を持ってはいないということである。ここでの認識は、人間精神内部の出来事として捉えられており、少なくとも表現の上では人間の「知的作業」として語られているのであるが、このこともやはり、この認識が無垢の直観ではなくなったことと同様に、自らの信念を他の人々にとって「理解可能な」ものにするというスピノザの目的と関係がある。

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