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2012年6月19日 (火)

清水禮子「破門の哲学 ~スピノザの生涯と思想」(10)

10.幸福の地平を拓くもの

『エチカ』における幸福の問題と関連して明らかになって第一の点は、認識による幸福の獲得という『短論文』以来の発想乃至原則が生き続けていることであった。さらに第二の点は、『エチカ』においても、人間に幸福を齎す役目が認識に課せられているとしても、『短論文』の場合と同じ意味においてではない、と言うことである。すなわち、幸福に至る手掛りを特定の種類の認識に求める言う点で、『エチカ』と『短論文』とは確かに共通しているのであるが、『エチカ』における認識と幸福の関係は、『短論文』の場合とは非常に違っている。『エチカ』で価値を認められている認識は、『短論文』の最高認識である知性とは違って、外的事物を享受したり、またとくに外的事物と合一したりする性格を完全に失っており、あくまでも、人間精神自身が行う普通の意味での知的な認識という枠をはみ出すものではなく、専ら幸福を得るために必要な地平を築くという仕方でもそしてまた、そうした地平を築く作業によってのみ、人間の幸福と結びついている。『エチカ』においても知的な認識が幸福を得るための要件と看做されるのは、正にそれが、この私自身の主体的な作用という地平を拓くからに外ならない。十全的な観念というのは、外的事物の側から人間精神の中へ送り込まれて来たものではなく、人間精神が自分の本性と力に依拠して形成した作品であり、そうした作品を生み出す自らの力の確かな手応え、満足感としての喜びこそ求められる当のものであり、『エチカ』のスピノザにとっての幸福なのである。

それゆえ、『エチカ』における人間の幸福にとっての要件は、人間精神の作用そのもの、人間精神が能動的に作用しているという事実そのものである。『エチカ』の知的認識は、それが人間自身の自発的な自律的な作用であるということ、ただそのことのみによって、人間の幸福への道となり得るのである。それゆえ、『エチカ』における幸福への道は、外的世界に対して閉ざされた人間精神の内部の出来事としての知的認識に始まり、その自覚から生まれる、やはり人間精神内部の出来事としての喜びを以って完結する。外的事物との「合一」という形の幸福は、最早『エチカ』のスピノザの念頭にはない。なぜなら、外的事物とは、総じて人間精神にとって無縁なものであり、そうした外的事物から働きかけを俟って合一に誘われるのは、根本的に不可能な、あるいは精々偶然的に真美可能な出来事に過ぎず、人間の受動、したがって、安定した幸福の保証の欠如を意味するものに他ならないからである。

『エチカ』における幸福の問題と関連してもう一つ明らかになることは、人間精神が自己の能動を自覚して喜びを感じる際のその自覚すなわち自己認識というのは直観でしかありえず、したがって第三種認識に属するということである。観念の展開という特徴の顕著な『エチカ』の他姓三種認識が、そうした性格であるにもかかわらず「直観知」と名付けられていたのは、一つには観念展開という作業の基礎をなす神の観念、したがって、また、幾何学的形式により観念を展開する『エチカ』そのものの基礎をなす神の観念を獲得する使命と関連してのことであった。

このように『エチカ』第二部に関する限り、第三種認識の直観的な働きは、専ら神の認識、すなわち全認識の第一の基礎をなすものの把握に携わるものとして、人間の幸福の問題とは截然と分離されて扱われたのであるが、これに対して、『エチカ』第五部の幸福論に登場する自己認識としての直観の方は、十全的な認識活動によって築かれた人間の能動という地平を「自己自身に対する満足」という喜びの感情に転化し、十全的な認識と人間の幸福とを接続させる役目を託されており、謂わば実践的な機能を果たすものとして扱われている。それは、勿論、それ自身で対象を享受し、対象との合一を果たしてしまう、かつての『短論文』における直観のように、端的に人間のある変化を伴うという意味で実践的なのでは無く、十全的な認識が進行する場面から身を離し、その場面全体を一つの事態として直接的に捉える、つまり「看取する」、精神のこの作業がない限り、「自己自身に対する満足」も生じない、という意味で実践的なのである。それゆえ、『短論文』の場合とは異なって、差し当たり分離されて扱われてきた、『エチカ』における認識及び人間の幸福という二つの項は、この自己認識としての直接を介してはじめて連結し、一つのまとまりを得ることになる。人間精神の自発的な自律的な動きの自覚であるこの直感は、外的事物の刺激によって惹き起こされた身体的な変化に由来するものでないから、当然、感性的な第一種認識ではない。また、それによって齎されるのが抽象的一般的な概念ではない以上、推論的な第二種認識でもありない。人間精神の働きの自覚の結果得られるものが、個的な「この私自身」の作用の認識であることを考え合わせるならば、自己認識というのは、神の認識とともに、第三種認識にのみ可能な、そして、第三種にのみ固有な機能であるであると言わなければならない。

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