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2012年6月26日 (火)

清水禮子「破門の哲学 ~スピノザの生涯と思想」(13)

5.「漠然とした経験」とノヴェルティ

『知性改善論』におけるスピノザの経験に対する態度は、ここで用いられている「漠然とした経験」という表現と関連して考えることが出来る。このような表現は『知性改善論』に特徴的なものだ。

1656年の破門は、スピノザにとって実に大きな事件、ノヴェルティであった。その時には、破門というノヴェルティを自らの「経験」にすることを避けたのであった。破門からあまり遠くない時期に書かれた『短論文』では、自分以外の存在との合一、浸透、すなわちコムニカチオに対する切実な願いに終始したという事実は、破門というノヴェルティであったことを示し、その段階では、ノヴェルティのままに留まり、未だスピノザの中で「経験」となってはいなかったことを示すものであった。すなわち、破門というノヴェルティは、コムニカチオの可能性の無邪気な承認を含むスピノザの信念の枠組み内部に割り込んで、枠組みを変更し、そこに場所を得て一つの「経験」となることを許されず、かつてのコムニカチオの相手の移ろいやすさゆえに降り懸かってきた一つの不運として、何処までもアペンディクスとして、信念の枠組みの外に留め置かれていたのであった。このように、信念の枠組みとの戦いを求めながら、その要求を無視された不幸なノヴェルティは、スピノザの身に現実に起こったものでありながら、知的には未処理なもの、スピノザにとっては飽くまでも外的な何かであり、彼がそれと正面から向かい合うことを拒否しているだけに却って、彼の眼には無気味なものとして映ったことであろう。

『知性改善論』のスピノザは、「漠然とした経験」を「知性による限定を受けぬ経験」と言い換えているが、予め有していた知的枠組みの手に負えぬが故にスピノザがそれと十分な意味での、知的決着をつけることを避け、そり切り崩しを望んできたノヴェルティというのは、正に『知性改善論』においてスピノザが、「漠然とした経験」という言葉で表現しているものに他ならなかった。

しかしながら、ノヴェルティというのが、本来、こちらの意志とは無関係に向こう側から突き当たって来るものである以上、それは、そう簡単に排除されてしまうわけがなく、何らかの形で自己を主張し続けて行くに違いない。『知性改善論』のスピノザが、『短論文』の場合とは異なって、経験的なものを排除する努力を貫くことを止めて、その存在と意味とを若干考慮する方向に転じたのは、一つには、ノヴェルティの切り離しというのが必ずしも容易な仕事ではないと悟ったことにもよるのであろう。たしかに、信念の枠外に留め置かれたノヴェルティにしても、何の役に見立たないというわけではない。スピノザにとって、このノヴェルティの出現により、コムニカチオ一般の可能性を直ちに問い直し、断念するには至らなかったけれども、移ろいやすい存在のコムニカチオの空しさを教えられ、コムニカチオの相手を新たに、確固不動永遠の存在に定め直したのであった。それゆえ、『知性改善論』においてスピノザが、「漠然とした経験」の有用性に触れる時、恐らく彼は、破門というエクスコムニカチオのノヴェルティからかつて受け取ったある教訓、ある示唆というものの存在を念頭に置いていたのであろう。

しかし、問題は、ここで有用性の見地からその存在と意味とを若干認められている経験というのが、飽くまでも、「漠然とした」という限定を付された限りでの経験に過ぎないということである。すなわち、『知性改善論』のスピノザは、ノヴェルティはノヴェルティのままで、つまり「漠然とした経験」のままで十分役に立つと主張しているのであって、これは、ノヴェルティがアペンディクスの域を脱し、既存の信念の枠組みを死に至らしめ、ひとつの「経験」になって行くことに対する彼の暗黙の拒否を現わしている。コムニカチオ一般の意味と可能性とを問い直し決定し直す要求を含むエクスコムニカチオのノヴェルティが「経験」になることは、依然としてスピノザの望むところではなく、彼は、「漠然とした経験」に留まる限りでのノヴェルティ、アペンディクスとして留め置かれている限りでのノヴェルティについてのみ、その存在を認め、その有用性を云々するのである。それゆえ『知性改善論』のスピノザが、「漠然とした」という限定を敢えて付した上で、経験的なもののある意味と在る価値とを認めているという事実は、「漠然とした経験」を超える謂わば真の「経験」の存在の可能性が、インプリシットにではあれ、何らかの形が感知されていたことを何よりもよく物語るものである。

しかし、破門というエクスコムニカチオのノヴェルティが『知性改善論』そのものの前提を成す神との合一、他の人々との合一の可能性の承認と抵触することになるであろうから。そして、実際、スピノザは、総じて経験というものに対してある思いを板きながらも、『知性改善論』の範囲内では、ノヴェルティを飽くまでも「漠然とした経験」としてのみ扱い、微妙な、正に「漠然とした」配慮を示すに留まったのであった。

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