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2012年6月 8日 (金)

清水禮子「破門の哲学 ~スピノザの生涯と思想」(1)

51aojt4kbzl__ss500_.破門とスピノザ

筆者は最初にスピノザの16年前、スペインからオランダに脱出したキリスト教徒がユダヤ教の入信し、上手く溶け込めず、教会から破門され、絶望と社会から疎外されたことを苦に自殺に追いやられてしまった事例を紹介する。

スピノザは、オランダのユダヤ人社会に生まれ、生家はそこでの有力者であったことから、上記のケースと趣はことなる。

ユダヤ教会の破門には2種類ある。その第一はニッドゥイと呼ばれ、罪を犯した人間をユダヤ人社会から追放する制裁で、一般に制裁を加えるという行為には、治療的効果を目的とするものと、ある個人の存在自体を否定、抹殺する目的を持つものと、二つのタイプがあるが、これは、前者に属する。すなわち、この破門は、問題の個人を最終的には受け入れることを前提とした上での、いやむしろ最終的に受け入れるための一種の手段と考えられる。

第二はシャマッタと呼ばれる、追放の場面や機関に関する限定を一切含まぬ、全面的な絶対的な追放である。この場合には、最早、治療や矯正の可能性は見捨てられており、従って、あらゆる場面における、そして悉くの未来に及ぶ、その人間の存在の断固とした拒否のみが前面に出てくる。スピノザが受けたのは後者であった。

また、破門の措置が取られる理由は借金返済の義務を果たさなかった場合と「エピクロス主義」とよばれる、エピクロスとは無縁だが、神を悪しざまに罵るといった柄の良くない拗ねた生活態度及び儀式や戒律を疑問視したり嘲笑した場合に取られる。スピノザの場合、後世の伝記では、彼がデカルト等の近世哲学に親しんだことやキリスト教の新しい宗派に接近したことを理由としてあげているが、当時のオランダのユダヤ教会は文化的な意味でのゲットーからは程遠く、文化的に開かれており、総じてラビたちも新しい思想の動きに積極的な関心を寄せていた。だから、近来哲学に対する興味や関心だけで、スピノザが制裁の対象になったとは考えにくい。実際に、破門の事情は不明な点が多く、もっと卑近な事情であったようだ。

このような破門という措置は、ラテン語では、コムニカチオから除斥される意味をあてがわれる。この前提となる、コムニカチオとは、何かを共有している状態を指す。何かを共有していれば、その何かにおいて、自分以外のある存在とのある結びつき、ある浸透が可能となり、少なくともその場面に関する限り、自他の区別や対立を意識せずに生きていくことができる。破門、エクスコムニカチオとは、そうした幸せな状態の外に身を置くことを意味する。それは、自分以外の存在と浸透し合っている状態を失うことであり、その時、相手は、私の延長であることを止め、こちらの要求に応えてはくれぬものとなり、その意味や価値を私自身が改めて一つ一つ決定して行かねばならぬ対象として姿を現してくる。

この破門は、スピノザにとって大変な事件であったと思われる。とくに、ユダヤ人取って破門とは「一種の火刑」に等しいもので、いずれの国においてもいずれの町においても正規の国籍、正規の市民権を持たぬユダヤ人が、ユダヤ人社会という一種の自律的法領から閉め出されるということは、社会的身分、経済の道、そして人間関係の一切を失うことであり、憩いの水際のない砂漠に放逐されることであった。スピノザにしても事情は同じで、彼もまた、自分がそこで生まれ育った生活そのもの、身体的にも精神的にも糧の大部分を得てきた拠り所、最終的には最も安心して甘えて寄りかかっていられた唯一のものから、突然、一方的に切り離されてしまい、手を差し伸べても、何を呼びかけても、何を語りかけても、求める返事が戻ってこないという頼りない感じを味わったことだろう。

事件というのは、いかに大きなものであっても、即ち、如何に大きな動揺を引き起こすものであっても、それは、経験ではない。ある出来事が事件として感じられるのは、それが、その人間の信念の体系から何らかの仕方ではみ出すからである。彼が現に用いているある枠組みでは捌き切れぬものとして、ノヴェルティとして、すなわち新しいものとして、向こうから突き当たって来るからである。それゆえ、ある出来事を事件と感じ、ノヴェルティとして受け取ることは、彼が纏まりある全体として生きていることの証であるが、また同時に、人間の進歩や向上、いや、総じて変化というものに積極的な意味と価値を認める立場からすれば、そうした事件の発生、ノヴェルティの出現は、不可欠の重要性を持つことになる。何故なら、一度出来上がってしまった信念の枠組みは、処理不可能な何かに突き当たって驚かされることがない限り、不活発な自己同一の眠りを果てしなく続けて行くからである。

しかし「哲学は驚きから始まる」という言葉が真理であっても、驚きのみで一切が遂行されるわけではない。ノヴェルティをノヴェルティとして感じることに基礎的重要性があるとしても、そのノヴェルティが枠組みの外側に放置されている限り、それは、アペンディクスの様なものに過ぎず、かつての纏まりは失われたままであろう。ノヴェルティの出現は、人間にとって、一つの宣戦布告である。それはノヴェルティが枠組みの内部に割り込むことを要求するものである。それを無視し、それを避けることは、古い信念の枠組み及びノヴェルティという分裂した要素をふたつながら抱えて生きる道である。それを受けて立つことによって始まるものは、纏まりの回復を目指し、ノヴェルティを枠組みの内部に納める戦いである。けれども、ノヴェルティというのが、元来、当の枠組みの手には負えないものである以上、その戦いは、枠自体の変化、場合によっては全面的な死という代価を支払わなければ決着のつかぬものである。従って、ノヴェルティの挑戦に応じることは、常に必ず、当の枠組みの死という危険の中へ足を踏み出すことである。「経験する」という言葉は、正にこうした事態を指すためのものでなければならない。そして、ひとが、ノヴェルティの挑戦に応じる道を選ぶ時、ノヴェルティは、事件は、枠組みの外側に放置されたアペンディクスであることを止め、新しい纏まりの内部で場所を獲得し、意味を与えられ、ひとつの「経験」となる。このようにノヴェルティを経験にするために、枠組み自体の死の危険を冒した人間にして初めて、あらたな、そして別種のノヴェルティと出会う可能性を再び手に入れることが出来るのである。

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