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2012年6月25日 (月)

清水禮子「破門の哲学 ~スピノザの生涯と思想」(12)

Ⅳ「与えられたもの」と哲学

1.「第六書簡」

『知性改善論』はスピノザが方法の問題について語る殆ど唯一のものである。この根拠は、オルテンブルクに宛てられた第六書簡に示されている。

この時期、リーンスブルクに移り住んでから約二年、心身の或る余裕を得、最早、破門直後の『短論文』におけるように、自らの意志に反して投げ込まれたエクスコムニカチオの淵から脱出するために、世界の中での自分の位置や役割を早急に獲得し直し、定め直すことではなく、かつて切羽詰まった仕方で取り扱った問題、他の人々の眼をあまり考えずに取り扱った問題を、他の人たちも理解できるような形に再構成することであり、方法論というのは、再構成された形而上学がより多くの人々によって受け入れられるための梯子の様なものであったから、したがって、新たに書かれる方法論の線に沿い、表現その他の点で当然少なからぬ変更が予想される形而上学として、スピノザが以前の『短論文』をそのまま使おうとしていたと考えることは困難であると言わなければならない。

2.『知性改善論』の背景

『知性改善論』執筆当時のスピノザは、リーンスブルフに移り、多くの友人たちの行為や愛情に囲まれるようになった。そのような環境で、次第に、スピノザは自分以外の存在との日常的なレヴェルでの浸透では飽き足りずに、他の人々との知的な傾向や立場を同じくすること、要するに、他の人々と知的な傾向や立場を同じくすること、要するに、他の人々が彼の立場や信念を受け入れ、吸収し、彼等自身のものとすることを強く望むようになり、彼のこの新たな要求が、方法論として『知性改善論』に着手する動機を為したのであった。

自分自身が神を知り、自分自身が神と合一するだけでは事足りずに、神の認識、神との合一という事態を他の人々と共有し、そうした共有を介して他の人々と合一することを真実の最高の条件に加えていた。このようにスピノザが、神の認識、神との合一というレヴェルで他の人間との一致、浸透、コムニカチオを求めるのであれば、その神というのが、他の人間にとっても納得できるもの、理解可能なものとして説かれねばならないし、更にそのためには、他の人々を神の認識にまで導いて行く道、神の観念を確保するための道、すなわち方法が講じられていなければならない。方法としての『知性改善論』は、正にこうした必要に促されて書き始められたのであった。

3.序論と原則

スピノザは、人間にとっての「善」とは人間の完全性を増す手段となり得るものも一切であると語り、人間の完全性の最高のものを、「精神と自然全体との結合の認識」と規定している。ところで、人間がその完全性を増していくためには、各学問や技術などの各分野における進歩や発展が必要である。人間に役立つ、こうした学問や技術というのは、いずれも認識を基礎として成り立つものであり、また、人間にとっての最高の完全性というのも、認識に関わるものであるから、そこで、したがって、知性を正しく行使する方法を工夫する必要があるのである。

このように『知性改善論』は、人間の幸福というのが認識を通路として到達されると看做す点で『短論文』の原則を受け継ぎ、また、幸福の大小を対象の側に具わる完全性の程度に委ねるという点においても、更にまた、最高の幸福を神の認識、神との合一と結びつけて考える点でも、『短論文』の基本的な主張をそのまま引き継いでいる。しかし、同時に『知性改善論』の序論的部分は、人間の精神について、それが矯正され、純化されねばならないと語る。まず第一に、認識というのを、人間精神が形成するもの、その成立、その進行の成否の全責任は人間精神が負うべきものと看做す後の『エチカ』とは異なって、認識とは、精神がそれに「与り得る」もの、精神の内部で首尾よく進行していくものと考えながら、しかし、第二に、認識は、人間精神の努力や能力、状態とは無関係に成立すると説くかつての『短論文』ともまた違って、精神が認識に与り得るための、そして認識が首尾よく進行するための条件として、人間精神が自らを矯正し純化する努力の必要を云々するのである。『知性改善論』のこうした特徴というのはも神の認識、神との合一というレヴェルで他の存在との間にコムニカチオを得るという、この時期のスピノザに顕著な要求、そして、そのためにはまず、異質な傾向を持つ種々の人間精神が、夫々の歪みを直して同じ出発点に立たなくてはならないという認識に基づく>

4.伝聞と経験

『知性改善論』の認識は、次の四つに分類されている。

(一)「伝聞から、あるいは記号から」の認識

(二)「漠然とした経験から」の認識

(三)「事物の本質が他の事物から結論される場合」の認識

(四)「事物がその本質のみによって、あるいは、その最近原因から知られる場合」

第一と第二の認識は、感性的な認識であり、不確実たせとして低い評価しか与えられていない。しかし、現実の問題として、不確実だからと言って、今すぐに一切の経験と手を切ってしまうことは出来ない。神の認識、神との合一というのが、スピノザにとって揺るぎ無い目標であるとしても、それが目下の段階では飽くまでも目標であるに止まり、未だ実現されてはいない以上、神の認識に至る本堂が完成するまでは、日常生活という間道をそれなりに大切にして行かなければならず、そうなれば当然、現に有用な経験的な認識は、無下には退けられぬということである。例えば伝聞も推論も間接的で、人間と事物をそのものとを繋ぐ糸ではなく、それゆえ、そうした間接的な認識に頼る限りの人間は、世界を手応えのある何かとして見出すことはなく、世界との関係において自分の位置や役割を確かめること出来ない。これに対して経験は事物そのものと直接接触するものであり、人間と世界とを何らかの仕方で結びつける力を持つ。このように、経験を一方で批判し、排除しようとしながら、他方でそれを有用性の見地から救おうとする『知性改善論』のスピノザの不明瞭な態度は、したがって、このような事情、つまり、日常生活を続けて行かなくてはならないという彼の自覚、及びそのためには今すぐに経験を放棄することは不可能であり、また不必要であるという彼の気持ちに由来するものである。

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