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2012年6月14日 (木)

清水禮子「破門の哲学 ~スピノザの生涯と思想」(7)

4.第二種認識

『エチカ』における第二種認識は「理性」である。『短論文』では、一般的な法則から個別的な真理を導出する機能の他にも多少曖昧であるが、個別的な真理に至る機能も含んでいたように思われる、何故ならば、『短論文』の理性の代表的かつ基本的な規定は、個別的な真理を介して一般的な真理を帰納的に推論することを必ずしも排除していないからである。けれども、『短論文』では、この二つの機能はあまり明確に描き分けられてはいず、「理性」あるいは「理性推理」という名称で一括され、間接的な認識であるがゆえに合一を齎さぬという理由から、いずれにしても簡単に低く評価されていたのであった。これに対して、『エチカ』の場合、理性の規定として目立った仕方で前面に登場するのは共通概念からの認識ということであって、それ以外の機能、帰納的な機能については全く言及されてない。つまり、普遍的一般的公理的なものの展開という性格が明らかに強調されているのである。このように理性の機能が変化したことは、恐らく、一つには、『短論文』以後、例えば『知性改善論』等を通じて行われた、人間詳しい検討と整理とにより、個別的なものの認識から普遍的なものの認識に進むことは現実的な展開に即して言うと、結果から原因へと遡ることに等しく、因果の系列の逆転であって、それゆえ、そうしたタイプの、むしろ第一種認識のうちで「超越論的』名辞」の形成に携わるものとして位置付けられた方が良いと考えたためである。

理性は、人間精神のうちにある若干の共通概念を「推論の基礎」として、そこから多く観念を導出して行かなければならない。そのような観念導出のプロセスは、外的事物から送り込まれてくる刺激の後を追うものではない。それは、外的事物の動きとは無関係に、人間精神の内部において、専ら「知性の秩序に従って」進行し、人間精神の自身によって「内的に決定された」認識である。感性的な第一種が「外的に決定された」ものであり、精神を受動に状態に置くという理由から低く評価されたのと丁度パラレルに、推論的な第二種認識の方は、「内的に決定された」ものであり、従って、人間精神自身の自律的な観念形成の作用であるがゆえに優れたものとして高い評価が与えられることになる。

5.第三種認識

『エチカ』において第三種認識は、「神の若干の属性の形相的本質の十全的な観念から、事物の本質の十全的な観念に進む」と規定されている。つまりは、人間精神が自らの力のみに依拠し、神の認識に基づいて事物を認識すること、あるいは神乃至自然全体の脈絡のうちで個物を把握する働きということになる。

『エチカ』第二部における第三種認識の叙述が乏しいか、それは形の上では第二種認識に非常に接近しているという事実に結び付けて解釈できる。それえ、『エチカ』の第三種認識というのはある十全的な観念にもとづいて他の多くの十全的な観念を形成する、「内的に決定された」人間精神の自律的な働きであり、外的事情に対して受動の立場に身を置き、事物自身の顕現を待ってそれ合一するという、かつて『短論文』において顕著であった性格を失っている。『エチカ』第五部においも、この種の認識が事物を「享受する」とか、事物と「合一する」とか、「純粋の受動である」といった類の表現は全く見当たらず、これは、何処までも、人間行う普通の知的認識として、人間の「精神の能動」として、また、人間の「精神の能動」として、また、人間の「精神の能動」であるからこそ人間の幸福にとって不可欠の条件として扱われるのである。『短論文』の最高認識の特徴であった受動性、愛や合一と分かち難く浸透し合った特殊な性格というのが、何ものかによってコムニカチオの中に拉致されて、独り切り離された不幸な状態、エクスコムニカチオという名の淵から早急に脱出する願いを映し出していたとすれば、『エチカ』における最高認識が、外的事物自体あるいはその動きとは独立に、外に対して開かれた精神が自らの秩序と力のみに依拠して行う観念の展開として捉えられているということは、何ものかの顕現を待ち受けて、コムニカチオの楽園に誘われる可能性の限界の意識を映し出している。さらにこのことは、『エチカ』における最高認識すなわち第三種認識が、『短論文』の場合と異なって、無垢の直観ではなく、観念の操作、展開という機能を含むもの、理性すなわち第二種認識と癒着したものになっている。これは『エチカ』の求める人間の幸福というのが、最早、他の存在との融合、合一、コムニカチオにはなく、自らのうちで観念を一つ一つ展開していく孤独な作業を、その成立の条件とするものに変化したことを物語っている。

6.「直観的」ということ

パーキンソンは、『スピノザの認識論』の中で、『エチカ』の第三種認識は確かに「直観的」であり、その点において第二種認識と区別されるべきである。ただし、『エチカ』の場合、「直観的」であることと「推論的」であることとは排除し合わない。パーキンソンによると、「直観的」という言葉は、演繹的推論のある為され方を現わすものであり、『エチカ』の「直観知」は、あくまでも観念展開の作用に尽きるというのである。それならば一体、観念の展開がどのように行われる場合に、「直観的」という修飾語が加えられるのかと言えば、それは、その観念の展開が、展開の規則を意識せずに、与えられた前提のみを用いて行われる場合であるとパーキンソンは主張する。「直観的」という修飾語を観念展開のある為され方と結びつけるパーキンソンの解釈は、ある意味で『エチカ』の第三種認識の特徴をとらえている。しかし、「直観知」を一般的規則の無意識的使用のみに限定してしまうことには難点がある。

『短論文』のスピノザは、神の認識という場面における「理性」を無力と看做し、神を認識する使命を純粋の直観である「知性」に専ら委ね、知性を「神の認識」と名付けていた。また、『知性改善論』では、最高認識を二つのタイプに働きを区別し、一方については、「その最近原因の認識からの」認識という、『エチカ』とよく似た規定を下しながら、もう一方を、「事物をその本質のみによって」認識することと規定し、この第二のタイプの働きによって「最初の真理」が得られると語る。つまり、『知性改善論』においても、『短論文』の直観とは性質を異にするけれども、しかし、演繹的な観念の展開ともまた別のある知的な働きが、ある基礎的なものを把握する上で必要とされ、まさにそうした役目担ったものとして確率されていたこともある。これに対して『エチカ』のスピノザは、第三種認識の規定として、権利の問題として、事物の本質の認識に「進む」ための出発点、神の属性の十全的な観念を得る知的な働きというのか問題となってくる。

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