バーン・ジョーンズ展─装飾と象徴─(2)~『眠り姫』─連作<いばら姫>
一人の王子が、生い茂った野いばらに閉ざされた宮廷に分け入って、100年もの長い眠りに陥ることを運命づけられた美しい姫を見つけ、口づけをした途端、魔法が解けて宮廷が眠りから目覚めるというのは、浩瀚な「眠り姫」伝説で、グリム童話やシャルル・ベローでも取り上げられていたものです。バーン・ジョーンズも「眠り姫」を題材にした一連の作品を制作し、かれの中でも重要な位置を占めていると言います。
126×237㎝という横長の大きなキャンバスに「画面にさまざまに配された人物をたちが全体として連続した横のラインを構成し、彼らを取り巻く野いばらの蔓や布、衣服の襞を描く繊細で優雅な線と響き合っている。」とカタログに素晴らしい解説がありますが、画家への愛情が感じられるいい解説です。
しかし、私には解説に言う人物たちの連続した横のラインが、横たわる少女たちの薄絹を通して露わになった身体の優美な、言い方を換えればエロチックなラインに見えてくるのです。眠っているということで、意識がないために恥じらうことなく身体の線をしどけなく露わにしているという構図です。ラファエル前派の画家たちは、ダンテ・ガブリエル・ロセッティをはじめとして、ジョン・エバレット・ミレイなども女性の神秘的な美しさをよく描いていますが、裸体やそれに近いものは殆ど描いていないのではないでしょう。彼らの場合は、古代風の衣装を着せたりした扮装とか、顔のとか、それら全体の雰囲気のようなものが中心のように見えます。とくに身体の線は全身像よりも半身像が主だったり、ゆったりとした衣装の隠れてしまうようです。例えば、ジョン・エバレット・ミレイの『オフィーリア』と言う作品は横たわる美少女という点でよく似たシチュエーションの作品ですが、全体の主眼は少女の虚ろな表情とそれを取り巻く幻想的な雰囲気で、しかも少女は全身が描かれておらず、衣装により、さらに身体の大部分は水に沈んでいるため、身体の線は隠されて、窺い知ることができません。
しかも、全体紹介したペルセウスの作品で描かれていたアンドロメダの裸体にも言えるのですが、それまでの常識では女性のヌードを描くと言う時には、神話などの場面をかりて、しかも理想の美の姿として描かれるというような約束事があり、その場合の理想の美とは、ギリシャ彫刻で表現されていたような人体の理想的な姿ということでした。女性の場合には、ミロのヴィーナスが典型的と思われるのですがふくよかで逞しいような姿が理想とされていたようです。これに対して、バーン・ジョーンズが描く女性の身体は、ふくよかで逞しいというよりは、細身になってきているように見えます。華奢とは言いませんが近代の家族の中で生産に携わらない男性に庇護されるという優美が第一というような、そういう捉え方のなかで描かれているように思えます。それは、ファロ・セントリズム、いわゆる男根中心主義というのか、女性はか弱く男性の視線に晒されているというようなあり方です。その対象として見た時に、バーン・ジョーンズの描く女性の身体というは、そういう視線に応える要素を持っているのではないかと思えるのです。
カタログの解説で書かれている“人物をたちが全体として連続した横のラインを構成”というのは、そういう視線に晒された女性の線ということをいみじくも語っているように思えるのです。しかも、当時のヴィクトリア朝の偽善的な道徳の許では、女性があからさまな男性の視線に晒されるということは、はしたないことであるはずです。だから、ふつうは女性がそういう視線に自らを曝すことはあり得ない。そこで、眠っているという状態が、意識がなく恥じらいを感じることがないという特殊な環境にあるということで、日頃は隠されたものが露わになる、禁断の姿を覗き見するような気分になれるといったら、うがち過ぎでしょうか。
しかも、眠っている少女たちの姿勢も、しどけなく、いかにも無防備ではないでしょうか。普段なら絶対に見せてはいけないような格好で、とくに連作のスケッチで一人一人描かれている女性たちの姿は、眠り込んでいるが故に自制心が利かなくなって多少だらしなくなって足をみだしたり、尻を突き出している姿をリアルに細部に至るまで執拗にスケッチされています。
さらに、眠っている少女たちの顔の描き方は、いかにも無防備という風情で、男性の視線の晒されていることに気づかず無垢な姿のままでいるようです。
話は変わりますが、「眠り姫」という伝説は、日本では「眠りの森の美女」という名の方がよく知られているかもしれませんが、精神分析のよる分析の対象として様々な取り上げられ方がされていました。その代表的なものとして少女が大人の女性になるときに、それに対する少女の恐れをあらわした一種の通過儀礼として見る見解があります。少女が眠りにつくきっかけは指を怪我して血を流すことですが、それを初潮とも破瓜の象徴ともとらえることができる。また、眠りそして目覚めるというのは死と再生の象徴であって少女として死んで大人の女性として生まれ変わるというのです。しかも、眠っていた少女を目覚めさせるのは王子による口づけです。男性との性的な接触により大人の女性として生まれ変わるという暗喩です。しかし、それは少女にとって恐ろしいことで破瓜は死に喩えられるなどです。だから眠っている少女の城は野いばらに覆われて男性も容易には近寄れなくなっています。その障害を乗り越えて踏み込んでくる男性だけが少女を大人に目覚めさせることができるのです。
ということは、ここで描かれている眠れる少女というのは処女性の象徴ということもできるわけです。つまり、純粋で、いうなれば男性に汚されていない少女のしどけない姿というわけです。それを彩るために野いばらだの装飾だのを執拗に細かく誠心誠意描き込んでいる、このバーン・ジョーンズと言う画家の姿を想像すると、狂気を感じるのは私だけでしょうか。全然、傾向は違いますが石井隆というまんが家の絵を思い出してしまうのです。(これについては、機会があれば別の時にお話ししたいと思います)
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