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2012年7月 3日 (火)

清水禮子「破門の哲学 ~スピノザの生涯と思想」(17)

9.定義論の挫折

未完の著作である『知性改善論』は、その後半において、「定義」の問題を扱っている。ここで、スピノザは先ず、「個物」の認識を取り上げ、それが「系列的に」行われなければならぬと説いた後、次のようなことを語っている。すなわち、個物が「系列的に」認識されるべきであると言っても、その場合の「系列」というのは、いわゆる経験によってしらける事物のあれこれの結びつきのことではない。そうした結びつきを辿り、それに従うことは不可能であるし、それに従うことは不可能であるし、不必要である。

スピノザが言おうとすることの第一点というのは、要するに、:経験によって得られる個物の認識は真の認識ではないということである。経験を通して人間は、確かに人生に役立つ事柄を知ることが出来るであろうし、世界についてあれこれの見解を持つことも出来るかもしれない。けれども、そうした知識や見解というものが仮に有効であるとしても、それは、基盤を欠いた偶然的なものに過ぎないのである。なぜなら、自然における事物の悉く動かし難い連結を以って連関し合っている以上、実的な観念の領域においても、すべての観念は確固たる脈絡を以って相互に接続し合っているから、そうした脈絡を離れて、人間の有限な経験の範囲内で事物の結びつきを追ってみても、それは、何処までも、観念領域全体の「系列」とは関係ない、断片的な性格を免れ得ないからである。それゆえ、個物の認識の認識は、経験に依拠した断片的な見解として提出されてはならず、観念領域全体を貫く因果の「系列」の中で齎されるべきものであり、そうしたものであってこそ初めて個物の認識は、「自然の再現」としての哲学の一端を担い得るのである。こうしたことは、『知性改善論』前半の方法において、スピノザが、最終的な方法を神の観念からの折り返しに求めたことと整合的である。

また、個物を神の認識関連させる第二点の方も、勿論、スピノザの提示した方法から全面的に外れてしまうものではない。けれど、不明瞭な印象を受けるのは、ここで語られ要求されている「系列」というのが、専ら神に始まるものだけに限られていることである。つまり、ここでは、前に方法のスケッチが為された際には、ある位置と権利とが認められていた「最初の道」に相当するものが全く無視されており、「神の認識を敷衍すること」、神の認識から「下降する」道だけが取り上げられているということである。

ところで、このように、真の認識というのが神の観念を起点とする諸観念の「系列」の中でのみ齎されるのであめならば、何よりもまず、神の観念が定義という形で、すなわち、言葉として文字として表出されなければならない。けれども、定義論の幾つかの個所が認めているように、神の定義は未だ得られていない。スピノザは、神の定義に到る道の入り口として「知性」という最も身近な個物の本性と力の認識、すなわち定義を求めた。これは、定義論そのものが表向き無視したあの「最初の道」の無言の復活であったが、しかし、このこと自体は、『知性改善論』の前半においてスピノザが予め描いていた計画の基本線には忠実に沿ったものであり、大きな問題ではなかった。

しかし、『知性改善論』は、知性の本性と力とが知られるためには、それに先立って、「知性の定義そのもの」が明らかになってなっていなければならぬ。すなわち、知性の定義が顕現するためには「知性の定義そのもの」が顕現しなければならぬという無限後退の方向に流されていく。そこでスピノザは不承不承、認めざるを得ない。知性の定義は、人間精神の働きを不要にするような仕方で、進んで姿を現わしてはくれない。言葉として文字として表出し得るような仕方で「おのずから」明らかになってくれはしない。けれども、観念乃至定義が「おのずから」顕現してくれるのではないという事実を決定的に認めてしまうのは、『知性改善論』詩人の描く計画にとって、『短論文』以来スピノザが語ってきた立場にとっても損失の大きすぎることであった。

スピノザは、方法の基礎となる観念乃至定義を「道具」になぞらえて語っているが、『知性改善論』の基調を成す根本的な信念にとっては必ずしも適当ではない。ここでスピノザが方法の問題と関連して言おうとしているのは、認識の道が、差し当たり可能な観念乃至定義から始まらなければならない以上、人間精神が持ち帰る最初の観念や最初の定義というのは、当然、神の観念乃至定義からの折り返しの道で得られる諸観念乃至諸定義とは異なり、他の観念、他の定義との脈絡を未だに欠いたものであることは心得ておかねばならず、この点を忘れて最初の観念、最初の定義の根拠の究明に固執し始めると、「最初の真理」の由来を詮索する不毛な懐疑論者と同じように、抜き差しならぬ無限後退に巻き込まれる破目に立ち至る。『知性改善論』そのものの挫折の糸口は、ここにある。

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