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2012年7月28日 (土)

柴田寿子「スピノザの政治思想 ~デモクラシーのもう一つの可能性」(6)

第2章 スピノザとフランス啓蒙思想─異端の「抑圧」と「復活」

スピノザ思想は西欧啓蒙思想の全盛期を準備する土壌をつくりながら、その思想内容は啓蒙主義とは本質的に相反するものであり、啓蒙主義とは本質的に相反するものであり、啓蒙主義は思想は自らとは異質な諸原理を展開するスピノザ思想を継承したというよりも、受容しつつその真髄を無意識的にすりかえ排除し、

第1節 フランス啓蒙思想はスピノザをどう読んだか

1.自由思想家とスピノザ

フランス自由思想家(リベルタン)はスピノザ思想に興味を抱き、会見しに来たものも何人かいた。当時の自由思想家たち、教会のドグマに苛立ち精神の解放を望んではいたが、放縦な欲望の解放を自由と同一視する傾向があり、みずからの理論体系の欠如をスピノザの思想で補おうとしていた。このような人々に対して、スピノザは批判的であり、彼らを警戒していた。

一方、ボシェ等の様に、スピノザ思想を理論的に咀嚼する作業を始めたものもいた。注目すべきは、ボシェへの批判を通して、ルソーがスピノザ思想に注目していた事実である。

2.貴族改革派とスピノザ

自由思想家を介してフランスに紹介されたスピノザは、誤解を受けつつも、その無神論的唯物論的側面はフランス思想界に浸透した。18世紀に入ると、フランスの「スピノザ主義者」たちは単に無神論的な雰囲気を求めるばかりか、歴史や社会に対して批判的考察を行い、具体的な政治改革を提示するようになっていった。王による専制政治を排して貴族による政治改革を目指した貴族改革派の人たちである。これは、ルソーによって批判されている。ここにも、スピノザとルソーの接点がある。

3.百科全書派とスピノザ

百科全書派は「神」や「実体」などの形而上学的概念やそれらの定義や公理によって体系を作る形而上学的方法を廃して、感覚的物質的な「自然」という概念だけを残した。ここに到って、スピノザ思想との完全なすれ違いが明白になってくる。つまり、自由思想家たちがスピノザ思想を輸入して以来、「スピノザ主義」は近代啓蒙思想の唯物論的傾向と科学的自然主義の土壌を形づくる上で大きな役割を果たしてきたが、スピノザ思想の本質そのものは啓蒙思想の内側には摂取されていなかった。ベーコンやデカルトが人間の自由は機械論的に運動する自然の法則を知り、自然を支配することによって達成されると考えていたのに対し、スピノザは人間社会をも含めた万物の総体として自然の生=力を考え、その必然的自然法則をどのような仕方で人間が受け入れるかに、人間の自由達成の鍵を見出していたからである。

実際に、百科全書派によるスピノザ形而上学は、スピノザ思想が全く理解されていないことを明確に示している。その批判は次のようなものだ。第一点はつね自然=宇宙はスピノザの述べるような必然性に基づく唯一実体=神ではなく、諸部分(諸実体)が複合してできた物質であり、神の自由な創造によって創られたものであるという点である。スピノザの言うように、延長=物質が思惟=観念と同等に神の属性であるならば、神は物質的であることになり、神の本性は卑しめられることになってしまう。第二点は、個々の人間あるいは人間の思考や行為は、スピノザ言うような神の変様ではなく、別々の諸主体であるという点である。そうでなければ神は、人類が引き起こす様々な狂気・妄想、不正・悪を生み出した加害者である。

このようなディドロによるスピノザ批判の内容から、近代啓蒙思想の基本的枠組みに推察することができる。近医啓蒙主義によれ、まずは自然は神の創造の産物である、がゆえに諸部分が緻密にかつ機械的に合成されて出来上がった物質であり、他方神の似姿をもつ人間は、その物質を知覚し法則性を発見し作用を加え支配する主体である。人間が自然を支配しえるか否かは、正しい自然科学の知識を獲得しているか否かにかかっており、それと同様社会が正しく構成され運営されるか否かは、人間の主体的で知的な営みの正誤に依存している。つまり、社会的な不公正や悪は、人間による錯誤・迷信・狂気・妄想などによって生み出されるものであり、人間の認識が理性的科学的になれば不正や悪は改善される。それゆえ従来の神学や形而上核の抽象性・不確実性・虚偽性を排し、それに代わり実験的経験的方法によって確証された科学的真理をたて、百科全書的に体系化されたそうした真理によって人々が啓蒙されるならば、人類全体の「教育」と「精神の進歩」が図られることになる。

このような啓蒙主義の精神とスピノザの体系が示唆した原理とは、根本的に異なっていた。自然は唯一実体=神であるというスピノザの体系によれば、人間は、自然の中における特別な存在ではなく、自然を支配する力もなく、むしろ自然という「外部の原因の力によって無限に凌駕される」存在であり、人間の思考や実践及びそれを介して形成される社会や歴史は、自然全体の必然的な統一性のうちに把握されねばならなかった。また、スピノザは、神の属性が思惟と延長であり、両者が変様したかぎりでの様態である観念と物との秩序は同一であるという形而上学を根拠に、人間における身体と思考の同一性及び観念としての感情や欲望と理性同一施という問題提起していた。それは、人間身体に対する思考の優位性や欲望や感情に対する理性の優越性を基調に理論構築を続けてきた西欧思想の伝統とは、真っ向から対立する問題設定である。さらにスピノザは、実体とその変容としての人間身体や種観念という概念装置によって、社会におる正義・不正義、善・悪、あるいは人間の認識における迷信・妄想・狂気などが、社会を含む自然全体の諸関係から必然的に生み出されるプロセスを解明し、個々の人間を主体ではなく、そうしたプロセスに依存としつつも、プロセスの個別的な連鎖につては、それを変更しえるものとして把握しようとした。

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