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2012年7月28日 (土)

柴田寿子「スピノザの政治思想 ~デモクラシーのもう一つの可能性」(7)

第2節 ルソーはスピノザの何を抑圧したか

啓蒙主義と基本的命題を共有しなかったルソーは、ディドロなどの百科全書派とはとは全く異なる仕方でスピノザを読んだ。彼が着目したのは、それまで人々が議論の的にしていた聖書批判や形而上学の問題ではなく、国家論だったといえる。

1.統治契約説と社会契約説

ディドロ等の百科全書派の理論家たちは、まず自然状態はまったくの無秩序ではなく一定の「自然社会」を成しており、自然法による一定の規律が支配していると前提し、そうした規律を「全人類の一般意志」、「共通の欲望」、「善」などの概念で示した。そして、人々は生まれながらに功利を追求する自己愛としての「特殊意志」とともに、「一般意志」に従う社交性を持っているが、ただ後者はきわめて不安定なものであるから、社会状態を安定させるため各人は同意と契約を介して自己の自然権の一部を主催者に委譲し、一定の「服従の秩序」を作る必要があると主張した。こうして主催者と人民の間には権利・義務関係が設定され、君主の権力の範囲は自然法と支配服従契約によって正当な範囲に限定され、臣民には市民的自由と所有権及び抵抗権が認められた。

ルソーは、このような自然法論と支配服従契約論は、たとえ人民主権論の名のもとに語られていようとも人民の福利とは両立しない奴隷契約であると主張する。ルソーは支配服従契約論を排し、正当な権威から新しい権力を樹立する結合の契約を提示する。その基本原理とは、多人数が集合し各人の「力」を総和させることによって、一致した動機で共同の活動を行いうる統一的な最高権力=主権を生み出すことである。しかも主権は、各人相互がすべての人々と結びつきながら、どのような他者にも服従せず自由であるような係合方式によって生じるから、各人の利益である「特殊意志」は真に一致し、「共通の利害」つまり「一般意志」が成立する。このような多数者による水平的な結合の契約を樹立するというルソーのモデルこそ、ホッブス契約論を改作したスピノザから引き出されたモデルである。

2.権利と力

スピノザは、個人の権利(自然権)と個人の持つ現実的な諸力とを同一視し、国家権力を諸個人の力の合成として理解しようと試みた。スピノザにとって国家成立以前の無法の自然状態においては勿論のこと、国家形成以後の法治状態において権利と力(ないし権力)とは同一のものであり、さらにはそれは自然法則と同じものだった。それゆえスピノザは、権利や権力の作用形態の変化に先行して、正当な権利をドグマティクに主張することもしなかった。たとえばスピノザによれば、既成の最高権力が崩壊し権力形態が変更されるのは、臣民が正しい権利を主張したからではなく、諸個人の力の結合方式になんらかの変化が起き、人々を結合させていた権力維持機構のメカニズムそのものに多大な変化が生じた結果である。

これに対してルソーは、主権の形成原理としてスピノザの論理を継承しながら、他面では「約束」としての正当な権利と事実としての権力とを同一視することを非常に警戒した。すでに存在する力とあるべき権利を混同することは既成の権力を正当化することにつながるというのだ。それゆえルソーの議論によれば、現実の力よりも正当な権利こそが先行すべきであり、一般意志は契約や法という約束として前提されなければならなんない。一般意志を明示するものは、少なくとも一度だけは成立したはずである社会契約であり、選挙による全員一致によって成立した決議であり、社会契約から成立したのちには一般意志は立法権によって制定された法として示され、合法的な人民集会の同意と決議によってのみ変更可能である。つまり「法律」こそが一般意志を明示するものなのである。これは、一方では近代的な「法の支配」の原理であるが、他方では、ひとたび一般意志を体現する政治体と法が形成されると、各人の私的利益=特殊意志とは対立する、「不変で、純粋で」常に正しく、常に公の利益を目指す一般意志に服従するよう、人々は「自由であることへ強制」されることにもなる。

3.公共的啓蒙性の必要性

ルソーは、「意志を一般的なものたらしめるのは、投票者の数よりもむしろ投票者を一致させる共同の利益である」と述べて、一般意志と特殊意志の功利主義的な一致を強調している。しかしまた特殊意志の集合体である「全体意志」は一般意志とは異なるものであり、一般意志は私的利益である特殊意志の競合や、「盲目的な大衆」の日常的で自然的な精神からは立ち現われない。「人民はおのずと常に幸福を欲するが、おのずから常に幸福が分かるとは限らない。一般意志は常に正しいが、それを導き出す人民の判断は常に啓蒙されているわけではない。」だから集会での「長い討論、紛糾、喧噪」や正規の定例人民集会以外の人民集会、さらには一定の意見を持つ人々が党派的な部分的社会を組んで意志表示の活動をすることは忌避される。

ここでルソーは、人民が常に一般意志を見出し得るような政治的社会的資質を身につけていない限り、社会契約の成立と一般意志の持続と健全な共同体の維持は困難であるが、そうした政治的社会的資質は、逆に人々が健全な国家における政治生活を送ることによってのみ培われるという、よく知られたジレンマに直面することになる。これは、各人の自由で平等な自然権=力の合成と合意のみを正当な根拠として統一的な主権と権威を一挙に産み出そうとする、ホッブス以来の社会契約論が孕んでいた論理的アンチノミーそのものである。ルソーにとって、一般意志が法律として示されるのに対して、習慣とは特殊意志そのものを現わしている。ここでの監察制度は、世論の腐敗を防ぎ賢明な方策によって世論の正しさを保つことによって習慣を維持する。こうして全構成員の真の力の合成によって最大の力を形成するという、最も民主的でリベラルな人民主権論は、人民各人の腐敗を防ぐため、法律によってではなく「公共的啓蒙」によって人民の習慣を日常的に管理制御するというモチーフとともに登場することになる。

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