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2012年7月 4日 (水)

清水禮子「破門の哲学 ~スピノザの生涯と思想」(18)

10.2つの方法

その理由は、『知性改善論』が語っていることに即して引き出すことのできる2つの方法があるのに、スピノザ自身2つの方法の関係乃至は相違を考えていなかったということである。『知性改善論』において現実に語られているのは、少なくとも一義的に単一の方法ではなく、二種類の方法、あるいは二段構えの方法であった。すなわち、スピノザは、観念との関連において方法のスケッチを行う際にも、定義論においても、一方で、神の観念、神の定義を起点とすることを究極の最上の方法の基点となるべき神の観念乃至定義に到るために、「与えられた」個物の観念乃至定義から出発することを常に考え、かつ、それを「最初の道」、「ある足場」などの言葉で表わしているからである。後者の終わったところから前者が始まるのであるから、これら二つは同じ道とは言えないし、少なくとも、二つの道の各々で得られる観念や定義は次元または性格上の相違があるはずである。「最初の道」において齎される観念は、神の観念から下降の道の中で然るべき位置、然るべき脈絡を保証されたものではない以上、その性格は、当然、暫定的に真という制約を免れえないのに対して、「全自然の根源と源泉を再現する観念から」の折り返しの道で得られる観念の方は、「最初の道」の観念とは最早異なり、究極的に真という次元にあるはずであるから。そうでなければ、スピノザ自身が「与えられた最も完全な存在の観念」に端を発する道を「私の哲学」と名付け、予備的な作業としての『知性改善論』と区別する必要はなかった。

真理は「原因の系列」の中でのみ、そして全体の脈絡のうちにおいてのみ可能となると主張される一方で、「最初の道」の出発点となる観念について、非常に多くの個所で、何の限定もなしに無造作に「真」という言葉が添えられていたことからも明らかなように、二つの道に登場する観念乃至定義の性格上の区別が明瞭でなく、そこから生じた結果は、「最初の道」に対しても、究極的な最終的な道におけるのと同じ確実性を要求するということだった。このことは恐らく、観念というのが総じて、人間の精神とは独立にそれ自体として存在する「実的な何か」であり、人間精神の働きを俟つことなく、既に予め「真」なるものとして人間の精神の内部に流れ込んで来るものであり、したがって、たとえ「最初の道」において齎された観念であっても、それが、「実的」な観念領域から贈られたものであるからには、やはりすべて絶対に確実でなればならぬという、スピノザの暗黙の強固な信念に支えられていたのであろう。

後半の定義論においては、まず、「最初の道」を無視した形で、神の観念乃至定義からの下降の道だけが強力に前面に押し出され、かつ、神の具体的な定義が性急に要求されることになる。定義論ではまず、神の定義からの下降の道にのみ方法としての価値と資格とを認めながら、次に、神の定義を一挙に得ることは出来ぬという現実におされて、神の定義に「到達する」ため、「最初の道」を断りなしに復活させておいた上で、最後に再び、知性の定義という具体的なものを実際に提出することが試みられたのであった。しかし、不幸にして、「創造されたもの」「創造されぬもの」の区別が予め云々されており、前者の定義は単独では得られぬこと、神の定義を起点とする諸定義の「系列」の中で、先行する諸定義を介してのみ齎されるということが、強調され過ぎてしまっていた。そして、「最初の道」に相当するものの存在と意味とが、形式上では全く無視されていたのであるからつ、人間の知性という極く慎ましい「創造されたもの」の定義を単独に得ること等は、不可能な話だったのである。

11.「最初の道」と「与えられた」もの

スピノザは一体なぜ、一方では常に、方法の理想を神の理念、神の定義からの下降の道に求めながら、他方、差し当たり身近な個物の観念乃至定義を足場とすることを一度ならず考え、かつ試みたのであろうか。差し当たり身近な個物の観念、定義から出発する試みが挫折したことの言わば形式的な理由がこれまで述べたようなものであっても、スピノザは、一体何を「最初の道」に求めていたのかという問題はなお残るであろう。

この問題に関して一つの大きな手篝を提供してくれるのが、「与えられた」という言葉である。この「与えられた」ものというのは、人間の精神による加工や形成乃至構成の拒否を含み、人間の精神の働きを超えた仕方で向こう側から身を現わしてくるものであって、スピノザが、方法の足場となる個物の観念について「与えられた」という限定を執拗に加え続けたのは、正に、「与えられた」ものに具わるこうした性質、すなわち、人間精神の側で加工や形成乃至構成と言った努力を払わなくても、精神のうちに「おのずから」身を現わし、「独りでに」流れ込んで来るという性質こそ、スピノザが『知性改善論』で最も必要としたものであったために外ならなかったからなのである。

定義論において、無限後退が始まり、混乱が生じ、『知性改善論』が挫折しても、スピノザが、知性の定義が「おのずから」明らかになる可能性への期待を手放そうしなかったのは、自ら手を加えて作り出したのではない「与えられた」ものであってこそ、言い換えると、人間精神の働きを俟つことなく、向こう側から「独りでに」精神内部に流れ込み、「おのずから」身を現わし、進展して行くような観念、すなわち、「実的」な観念領域からの贈物としての「与えられた」観念であってこそ、真に確実で価値に満ちたものであり、また、そうしたものであってこそ初めて、単独で一挙に出会うことの困難な神の観念乃至定義を、同じ「与えられた」ものの水平線上に誘い出す資格を有し、最終的な最も安定したコムニカチオを齎すことが出来るという、『短論文』以来の変わらぬ信念に支えられていたためであった。「最初の道」は身近な個物の観念乃至定義と関連してであれば容易に得られると思われた、この「与えられた」という性質を拡張して行く任務を帯びた道に外ならず、それゆえ、スピノザがこの「最初の道」にある意味で固執したという事実は、観念乃至定義の悉くを、人間精神自身が行う選択や決定や評価といった働きによる汚染から守り、「与えられた」ものというスピノザにとってこの上ない価値を持つ性質が哲学の隅々にまで浸透することを、彼が如何に強く望んでいたかを示すものである。

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