バーン・ジョーンズ展─装飾と象徴─(4)「ピグマリオン」
キプロスの彫刻家ピグマリオンは、かつて見たことのないほど素晴らしい女性像を創った。ついに彼は、自らの作品をまるで生きているかのように愛するにいたり、ヴィーヌスに祈って救いを求めた。ヴィーヌスは彫像に命を吹き込んで本物の女にし、ピグマリオンは彼女と結婚した。オィデヴィウスの『変身譚』にも収められたギリシャ神話の有名なエピソードです。これはまた、精神分析ではピュグマリオニズムなどと呼ばれる人形偏愛性、生身の人間の女性ではなく心無い対象である人形を愛する性癖、広義に捉えれば、女性を人形のように愛する性癖を指します。つまり、生身の人間の女性は、いくら美しい女性であっても自我がある独立した一人の人間です。だから、こちらの思い通りにはならないし、時には諍いもある。人と人との付き合いですから、そのような煩わしさを嫌い、人形のように自分の思い通りにしたいという性癖のことを指します。これがすすめば変態者になってしまいます。このような例は小説や戯曲では少なからずあり、ピグマリオンをベースに、バーナード・ショーという劇作家が「マイ・フェア・レディ」と言う作品を書いています。上流階級の言語学者が下層階級の少女を淑女に仕立て上げるという作品は、オードリー・ヘップバーンの主演で映画化もされました。こじつけでいえば、「源氏物語」で光源氏が紫の上を引き取って育てるのもそうでしょう。
だから、ピグマリオンという題材を取り上げること自体に、とくにどうということは言えないのでしょうけれど、別のところで取り上げた「眠り姫」でも、眠りについて意識を失っている少女は人形にも通じるものです。これについても、エスカレートしたものはネクロフィリオという変態嗜好に通じるものと言うことも出来ます。
そして、この「ピグマリオン」の連作で描かれている女性は人形であるが故に、表情が描き込まれていません。女性を好んで描く画家なら、生命のない人形から、女神によって命を吹き込まれて女性となったときの生命に輝く姿への変化を描くのでしょう。しかし、バーン・ジョーンズにはそのような劇的な変化には興味がないようです。むしろ、生き生きとした表情がないところで一貫しているようです。それよりも、彫像から人間になったとしても、その女性の外見的な美しい姿に、彫像の硬さや冷たさから、人間となったことによって柔らかさや人間の肌の肌触りが加わったことを嬉々として描いているように見えます。そこに、制作者であるピグマリオンの支配の対象としては彫像でも、人間となっても変わらない描かれ方をされているように見えます。人間となってもピグマリオンに導かれるのに素直に従う様子で描かれているわけです。しかも彫像からの連続ということで、女性の裸像を恥じらいのない露わな姿で現している。
ピクマリオンをベースにした「マイ・フェア・レディ」という物語がありますが、この陰画として、マルキ・ド・サドに「ジュスティーヌ」という物語があります。ナイーブで純粋無垢な乙女のジュスティーヌを、悪意の男たちが寄ってたかって汚して調教していくというポルノグラフィーの古典というべき作品です。これは後の団鬼六の「花と蛇」もそのパターンを踏んでいますし、ポルノグラフィの王道パターンのひとつになっているのです。
べつに、バーン・ジョーンズのこの作品では、縛ったりとかしているわけではありません。それぞれの作品は、ギリシャ神話のや中世の伝説を描いたということなので、表面上では、上に書いたようなポルノグラフィのような捉え方はされないのでしょう。しかし…
ラファエル前派の画家には女性を好んで描く人が多いようです。バーン・ジョーンズもそうでしょう。たとえば、ダンテ・ガブリエリ・ロセッティは女性の神秘性というのか、世紀末のファム・ファタールとしての女性、神秘的な美しさを湛えながら時には男性を手玉に取り奈落の底に落としてしまうような魔性を秘めた姿を描きました。また、ジョン・エバレット・ミレイは歴史に翻弄されながら、時には失意に沈み、時には雄々しく運命に立ち向かう女性の気高くも儚い姿を描きました。かれらの描く女性はそれぞれに生き生きとして独自の存在感を主張していました。これに対して、バーン・ジョーンズの女性は表面的に見えてしまうのです。その第一は表情とか生気に欠けるという点です。そして、前の2人に比べて裸体画や裸体をそれとなく連想させる画像が多いということです。それは、いまの日本の男性雑誌に繰り返し載せられている、少女たちのグラビアといわれる写真の子供っぽいとしか、あるは呆けたとしか見えない、確かなことは彼女たちの自我の主張がない表情と、そっくりのように見えるのです。これは私の偏見かもしれませんが。そういうものと同じような効果をバーン・ジョーンズの描く女性たちは機能していたのではないか。ヴィクトリア朝という時代は、道徳が強調され表面的な礼儀正しさとか公序良俗がやたら目立った偽善的な時代だったという人もいます。そういう、いわば建前がまかり通る息苦しいような時代風潮の中で、ややもすれば抑圧されてしまっているようなものを、表面的には神話や伝説といった名目の陰に隠れて代替的に満たさせてくれるものとして、バーン・ジョーンズの描く女性は機能していたのではないか。だからこそ、存命中は売れっ子作家であった彼は、亡くなる、ヴィクトリア時代が終わると、急速忘れられていったのは、そういう理由もあるのではないか、などと変なことを考えてしまうのです。それが最近になって急速に復権したのは、現代のグラビア写真や美少女イラストとかアニメに似たテイストを持っているからとも思えるのです。
結局のところ、このような書いている私自身の問題で言えば、こうようものとして捉えられるからこそ、この手の作品は好きなタイプです。
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