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2012年7月25日 (水)

柴田寿子「スピノザの政治思想 ~デモクラシーのもう一つの可能性」(3)

3.スピノザにおける権利論

スピノザの自然権の特徴として指摘されてきたことは、自然権と自然の力を同一視し、「自然権」とは自然物全てが持つ自然的力であり、さらに「自然権」とは万物のもつ自然力が織りなす自然法則ないしは自然の秩序としての「自然」にほかならない、と主張した点である。これには近代社会契約論やリベラリズムの側からは、権利と力と法の同一視として批判の対象とされてきた。

このような権利と法の同一視を鋭く批判したのはホッブスである。

しかし、スピノザの述べる自然法則とは、人間の意志的自発的活動の余地のない機械的決定を意味しない。スピノザ哲学にとって法とは、先ず端的に「自然の必然性に基づく法則」つまり「事物の本性すなわち事物の定義そのものから必然的に発生する法則」に他ならないが、通常、人々は、人間の意志によるものか否かという表象に基づいて方を二つに分類している。つまり一方には、例えば運動量の保存の法則のような「物体に普遍的な法」や「人間の本性から必然的に生じる法」があり、他方には「人間の意志に依存した法」があるというように。そして、後者の典型として「人間が自己の自然権の中のあるものを自発的にか強制的にか放棄して一定の生活規則に自己を束縛する」という法がある。そのような自然権=自然法の動向や機能は、哲学の立場から見れば、前者の法と同様に自然の普遍的諸法則に則って存在し機能している。その必然性とは人間の力による必然性である以上、人々はそれわ人間の意志によって生じるとみなしている。また、自然の普遍的法則による哲学的説明は具体的場面においてはあまり役に立たず、実生活において人々はむしろ諸事情を可能的なものとして。または人間の意志に基づくものとして考え行動している。

とするとスピノザの述べる自然法=自然法則には、人間相互の自然的で無意識的な共同性も意識的ないしは意志的な選択によるものと考えられている共同性もともに、本来的にはある同一の秩序連関によって生起している事柄として含意されている。つまり各人が契約に基づいて自然権を譲渡し国家を形成する過程には、ホッブスが社会契約成立の要として考えていた自然法の認識や自発的な意志や理性の働き等が含まれることは勿論のこと、共同性全ての動向と機能を総括・統括する極めて広い要素が含まれている。スピノザは、一方で国家の成立に契約を求めながら、他方では人間は本質的に社会的動物であるとして、国家成立の要因を分業や協業と言った相互扶助活動の自然発生にも求めている。

スピノザが述べる権利の概念とは、法的あるいは道徳的な規範的意味のレベルではなく、ある特定のものがある具体的場面において現実に何を成し得るかという実質的レベルで定義されており、他の無数の力である自然権との連関が織りなす様々な物理的社会的制限のもとにある「定められた力」という具体的内実が指示されている。それゆえ、スピノザの言う人間の自然権の内容とは、「一個人に可能なかぎりでの」個人の身体的精神的能力の総体を指し示す、と解釈するのが妥当であろう。とすると政治的領域における権利論として見る限り自然権の内実はホッブスと大きく異なるわけではない。ホッブスも個人の力=自然権は無制限なものではなく、何らかの外的障害や判断や理性による主体の側からの内的制限を伴うと考えているからである。スピノザは、ホッブスが自己の内在的力としての自然権とそこに加えられる外的内的制限として対立的にとらえた権利と法の構造を、より広範囲のファクターをも含めて様々な力の累積から生まれるある構造的な法則の問題として統一的に把握し、それによって具体的場面における個別的で実際的な権利の本質=力を理論化し得る可能性を開いていく。

4.「力の合成」としての最高権力論

権利と力と自然法則と自然法を同一視し、自然権から自然法による国家権力の樹立を一貫して自然的な力の運動法則によって説明しようとするスピノザの理論は自然法論の側からも批判されてきた。例えば、スピノザの自然法は強者による弱者の支配やパワー・ポリティックスを正当化するものであるという批判である。

自然権の譲渡について、スピノザは次のように説明している。まず自然権を絶対的に譲渡すると言っても、各人が自分の諸能力の総体を放棄することを意味してはいないし、そのようなことは現実に不可能である。自然状態における各人の「力」としての自然権は国家状態においても停止されることはなく、「自己自身が裁判官」である状況から「共同的に所有する」状態へ、つまり「その権利が各人の暴力と欲望によってではなく、万人の力と意志による決定」へ移行されるに過ぎない。そこに生じる最高権力の権利とは、構成員である「大衆の力によってひとつの精神であるかのごとく導かれる自然権そのもの」であり、「より多くの人々が…一体に結合するにしたがって、すべての人々がますます多くの権利を共に持つようになる」

このように各人の生命、平和、福祉を確保するために構成員全ての自然権=力を結合させ、合成力を形成することによって「共通の権力」を構成するという考え方こそ、ホッブスが自ら主権論の中核に据えている理論だった。

スピノザにとって自然権の共同的所有を現実に可能とさせるものとは、ホッブスが提示したような各人の道徳的規範としての自然法やそこに基礎づけられた法的規律ではなく、各人の力より圧倒的に強い唯一の絶対権力の存在であり、それを形成するのはひたすら各人の自然権=力の運動法則という意味での自然法のみであり、だからこそできるだけ多数の構成員の力を実質的に合成する方策が要請される。つまり、スピノザは、ホッブスによって確立された「自然権の圧倒的優位」を継承した上で、ホッブス国家論の最良の理論的眼目は「自然権=力の合成」論にあることを見抜き、ホッブス自然法論が残存させていた規範性を除去し、それによって自然権という力の集合の論理として徹底的に一元化して改作した。スピノザはホッブスの社会契約論の論理構成を追いながら、自然必然性もとに論理を一貫させることによって、もうひとつの可能性を切り拓いていくことになる。

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