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2012年7月11日 (水)

バーン・ジョーンズ展─装飾と象徴─(5)~まとめ

最後に、まとめてみましょう。ここまで、展示されている作品の印象を、それぞれに綴ってきました。ここでは、そういう印象を与えられたのは、バーン・ジョーンズの作品がどのような描かれ方をしているかをまとめてみたいと思います。

Rubin 先ず第一に、展覧会のポスターやパンフに使われているペルセウスのシリーズのところでもお話ししましたが、このペルセウスの冒険を連作で描いたシリーズでは特に、あるいは『運命と車輪』という作品だったりに顕著に感じられるものですが、画面に空間を感じにくいということです。これらの作品には、人物や怪物、あるいは神様等様々なパーツがビッシリと描き込まれていて、画面の詰め込まれた感じです。その反面、隙間は描かれたもので埋め尽くされ、隙間をあまり取れなくなってしまっているかのようです。ても、それならば、人物などのパーツの大きさを相対的に小さくすれば隙間は取れるはずです。しかし、実際の作品では為されていない。その理由として考えられるのは次の2点です。まず第1点目として、そもそも、この画家には空間というパースペクティブで捉えることがないのではないかということです。そもそも、空間というのは、近代的な認識論の中で、人がある物を見るときに、その物を、それを取り巻くある広がりと共にとらえて、その広がりの中で捉えようとすることをします。そのときに、そのある広がりを捉えるためにものさしのように人が利用する手段のようなものです。それが実体として存在するというよりは、そういう物差しのなかで物を捉えようとする便のようなものです。単純化すれば、地と図の関係の様なものと言えます。例えばルービンの盃というものでは、黒い部分を見ると盃ですが、白い部分だけをみると人の横顔が向かい合っているように見えます。これは極端に単純化したものですが、物というのは、それを単独でみるのではなく、必ず周りとの関係として人は認識しています。その関係を把握する物差しとして空間というのを人は設定するということです。それが絵画でどのように現れているか、というと代表的なものが遠近法という技法です。これによって人物を描いた作品であれば、描かれた人物が手前にいるのか奥にいるのか、もし人物が2人いれば2人の位置関係が想像できるようになっているわけです。そういう視点で先ほど例として挙げた作品を見ていると、人物の位置関係は、すべて手前に一列に並んでいるように見えます。そもそも、いつ関係が生まれるような奥行が感じられない。つまり、描かれていない。だから、そこに空間という広がりがないのです。むしろ、画面の平面にペルセウス、アンドロメダ、大海蛇というパーツがレイアウトされている、という描かれ方をしているように、見えます。そもそも、空間というを把握するためには、物とそをとりまく周囲というように、あるいは地が図かというような選択が行われているはずですが、バーン・ジョーンズの作品ではそのような主と従の選択がなされていないで、それぞれのパーツが一様に描き込まれているように見えます。そのような一様な平面が一般的なものが装飾的な図案です。

Bjunmei_2 次に第2点として考えられるのは、別のところで取り上げた『いばら姫』という作品を見ると、折り重なるように眠っている少女たちの身体の輪郭の線が優美な曲線となって、画面全体に効果を一定の効果を生んでいます。これは、それぞれの人物がリアルな存在を主張するのではなくて、平面的に図案のように並んでいることで、生まれてくる効果です。これは画家が意識的に意図したのか、結果としてこうなったのかは分かりません。しかし、他の『フローラ』などの作品を見る限り、図案として意図的に考えているように想像できます。その場合、平面的な画面の方がレイアウトとして構成しやすいことは確かです。

このように、バーン・ジョーンズの作品が平面的で図案のようだということから、次の特徴が現れてきます。それは、細部まで執拗に細かく描かれているということです。例えば『いばら姫』の少女たちと背後に生い茂る野いばらの描き方を見てみると、同じように細かいところまで描き込まれています。これが、さらに画面の平面性とか図案性をさらに推し進める結果となっています。逆に、平面的だからこそ細かなところまで描き込み易かったのかもしれません。おそらく、彼の画家としての資質が一段高い視点から空間全体を設計して、画面を構成するということよりも、画面を構成するパーツである細部から描き込んで結果として画面が出来上がるという行き方をしているように思われます。その現れとして、画面に描き方に部分による軽重があまりなく全体に誠実に手を抜くことなく描き込まれている、悪く言えばメリハリがあまりない、ということが言えます。

デッサンやドローイングを見れば分かりますが、細かなデッサン力というのが、この画家の得意なところで、強みでもあるもので、それを作品として生かして結実させる、また、全体を大掴みに把握するよりは細部を積み上げていく志向性に合致した画面の作りということで、平面的な画面というのがうまくマッチしたのではないか。

さらに第3の特徴として考えられるのが、バーン・ジョーンズは画家であると同時に、ステンドグラスの下絵デザインや装飾を描いたり、本の挿絵を描いていたということです。そこでは、装飾として用いられることから近代の絵画作品に共通する自己主張のようなものは抑制することになります。その結果が平面的な画面というのは短絡でしょうか。また、さらに、この時代に写真が普及し始めます。似たような機能を果たす絵画にとって写真は新たに出現した競争相手であったはずです。スピードやコスト、リアルな再現力で絵画は写真に勝てないため、写真とは違った特徴を強調することで、生き残りを図ったと思います。それは写真に出来ないこと、例えば、現実に無い幻想や歴史や物語の一部を描いたり、写実とは違う表現を行ったり、人物の内面まで抉るような精神性を追求したり、といろいろあったと思います。そこでの、バーン・ジョーンズの行き方は、写真と正面から対決せずに、写真の特徴であるコピー機能を取り込みながら、装飾的な図案化を施すことによって差別化を図るというものではなかったかと、思います。それが、彼の作品の急速な普及を後押しすることになったのではないか。結果的に、ベンヤミンのいう「複製技術時代の芸術」を絵画の要素として持ち込んだのではないか。

この場合、大量生産に進むことになるでしょう。そうなるとターゲットとなるのは大衆ということになるでしょうか。そのときに、人間の存在とか難しいことをいうよりも、描かれた人物が外形として美しく、しかもギリシャの理想などよりも分かり易いことが求められてくると思います。手っ取り早く言えば、複製可能となったことにより、大量生産が可能となる。そのターゲットとなるのは大衆のはずだが、大衆には各自が審美眼を育てる余裕などない。そこで分かり易い美しさが必要となってくる。その結果、理想とか、内面といったものを欠いた、表面的な見た目の美しさが歓迎されると、画家が意識しなくても、その傾向に添うようなものに傾いてくる。もともと、装飾的な志向があって、精神性とかそういうものとは近しくなかったことも、相乗効果として追求していくうちに、男性から見た女性の美しさを追求していくうちに、エロチックな要素が次第に盛り込まれる結果となったのではないか。もちろん、バーン・ジョーンズ自身にも、そういうものを好む傾向があったと思います。

それが、今回の展覧会での感想のまとめです。ちょっと、最後は駆け足になりましたが。

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