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2012年7月30日 (月)

柴田寿子「スピノザの政治思想 ~デモクラシーのもう一つの可能性」(8)

第3節 大衆はいかに力を合成するか

1.異質者の連結

このようなルソーの一般意志に対して、スピノザ政治論における「ひとつの神」には啓蒙主義的視点はない。「ひとつの精神」とはあくまでも個人の私的欲望を基礎として成立するものであり、必ずしも「理性」ではない。歴史上存在した国家は、理性という一致点によって形成された場合よりも、「安全を図るために必要不可欠な事柄」で一致し、「同じ生活様式」を持ち、「共同の欲望」や「共同の恐怖」などの同一感情を共感し合うことによって生じた場合が圧倒的に多い。そして最高権力の成立さえ確保されているのならば、人々の間で、利害認識や感情に様々な差があってもかまわないし、すべての人々が常に真に理性的な判断を下す必要もない、スピノザは、自然権に関して「賢者か愚か者か」というように区別は全く存在しないことを強調した。これは、理性的公共的判断を成し得るか否かにかかわらず、すべての個々人が政治的は共同体に参画し得る、ないしは参画すべきであるという意味ではなく、歴史上いついかなる状況に在ろうとも、大衆はつねに何らかの形で権力形成システムに参画してきたのであり、それが自然権=自然法則であった。スピノザのイメージする国家とは、個々人が自己利益に基づく活動を行うことによって、たえず自己と他者との欲望や感情の一致点が力動的運動として現出する場であり、そうした場がいくつも複合的に組み合わされと全体としてはあたかも一つの精神であるかのように機能する統一体である。個々人の欲望の多様性は普遍的に公的領域の下に一括されるものではなく、その多様性、異質性は絶えず編成され続けるひとつのシステムをなし、そのシステムそのものが大衆という言葉で置き換えられている。

こうした相互に結果とも原因ともなっている諸様態の連関性を貫く必然的法則、つまり自然法則たる自然法は、もちろん社会契約説によっては解明されえない。社会契約説が、各人の自然権の終結によって最高権力を成立させ、その正当性のもとに政治機構の構成や法秩序を導き出すという論理によって、アンチノミーに陥った。その意味で社会契約説は、スピノザ哲学にとって理性的認識とは言い難い。しかし社会契約説を最もラディカルな必然性のもとにルソー的なレベルまで追い詰めたスピノザは、後にルソーが明言することになるアンチノミーを明確に意識していた。だからといって、スピノザは社会契約説を廃棄していないし、大衆の力という概念をスピノザによる概念とも言えない。ホッブスからスピノザそしてルソーにいたる時代においては、社会契約説が大衆の力の結集や権力形成システムにおいてきわめて現実的で強力な表象として機能していたことは確かである。むしろスピノザにとって重要なことは、大衆が織りなす数々の表象の連結秩序の一種として社会契約論を示すとともに、大衆による力=権力の集積の動向と社会契約論という表象が交錯する現場の秩序構成がどのような規則性によって統御されているかを分析することであり、身体的力の連結としての権力と観念的連結としての表象相互の同形成、補完性、連動性を論証して行くことにあった。

2.近代国民国家の以前か以上か

スピノザが生きた時代のヨーロッパは正に近代の黎明期にあたり、民族を基盤とする近代国民国家が生成しつつあった。イギリスやフランスでは、ブルジョワ市民層が形成され私的利益の追求者として市民階級を形成する力を蓄え、同質性を共有する党派を結成して政治闘争に参画し、選挙や議会を通して多数派を形成して行政府の交代を図る、という議会制民主主義を形成する過程とは相即的に進んだ。

ルソーは、そうしたブルジョワにすぎない「市民」を告発し、イギリス型の議会制民主主義を鋭く批判した。ルソーによる同質性の要請は、平等の問題への深いコミットメントの結果提示された論点であり、彼は、近代民主革命と産業革命に伴って浮上する貧困と階級対立の問題をいち早く自らの政治論の中心課題に据え、真の民主政は習慣、才能、格律、財産の平等な人々によって構成されると規定した。ルソーが、約束という権利を事実としての力から厳密に区別したのは、圧倒的多数の人々は腐敗した少数者が形成する全体意志としての既成権力下で経済的不平等と圧政に虐げられているという事実と、その大多数者である人民の一般意志による「社会契約」こそが人間の自由と平等を実現する正当な権利を持つという権利とを、激しく対立させて意識していたからだった。

これに対してオランダがきわめて特異な状況にあった。イギリスやフランスを典型として形作られる「近代」や「国民国家」や「資本主義」といった概念にあてはまらない。そこには、スピノザの様な政治論が成立する余地もあった。スピノザにとって国家とは、ブルジョア的な市民としての公的領域から分離され一般化された人々の私的利益の調整機関であるような市民社会成熟期の近代国民国家ではなく、逆に市民社会の人間関係そのものを包摂してしまうようなキウィタスの延長上にイメージされる国家であり、近代国家形成期に現われた数少ないひとつの典型である。国家と市民社会はまた分離しておらず、人間が私的経済活動の圏と公的政治活動の圏とに二分され、その分裂・矛盾が社会的規模でも個人的内的葛藤としても固定されるという特殊的近代的意味での公私の分裂の形跡は、スピノザの政治論には見られない。スピノザによれば、国家は私的な領域から分離された公共的でナショナルな領域に成立するものではなく、様々な位相や領域で繰り広げられる大衆の自己保存力に基づく活動が織り成す力の諸関係である。このように大衆とは、民族的・階層的・思想的相違は勿論のこと、あらゆる意味で異質である人々の集合体を意味する。そのため、その同意と力の結集は精神の自由な絶えざる運動のなかでしか成立せず、それをスムーズなプロセスで進行させるうえで最も重要で不可欠な条件が、思想信条と言論の自由の完全な保証である。スピノザにとって「大衆の力」とは、社会契約や法によってあらかじめ示される理性や一般意志のもとで、啓蒙と指導によって制御・統制されるものではなく、個々人や集団間の絶えざる運動の過程として生成されつつあるものであり、あくまで大衆の力の合成の方式や程度そのものが最高権力の力と権利を決定し続けるからである。

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