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2012年7月 1日 (日)

清水禮子「破門の哲学 ~スピノザの生涯と思想」(16)

8.『知性改善論』の基調

『知性改善論』の基調を成しているものは、観念が向こうから身を現わし、精神に対して何らかの「指令」を与えてくれるという信念であると理解しなければならないからである。すなわち、外的な事物そのものか、あるいはその観念かという違いこそあれ、自分自身ではなく相手の方が進んで身を現わすのを待ち、自分自身ではなく相手の方が進んで身を現わすのを待ち、自分はそれを受容する側に回ろうとする基本的な態度において、『知性改善論』は『短論文』と何ら異なるものではないからである。『知性改善論』の場合、スピノザが認識の支えを外的事物そのものにではなく観念に求めたのは、一つには、外的事物自体が人間の精神に顕現し、自らに関して肯定否定を行うという『短論文』の主張が、スピノザ以外の人々にとって必ずしも「理解可能」なものではないといった事情によるのであろうし、もう一つには、外的事物が精神に顕現するのは、結局のところ、その事物の観念としてであるという点が顧慮されたことにもよるのであろう。

スピノザは、観念を「道具」になぞらえる比喩のすぐ後で、観念というのが総じて「実的」であること、「それ自体として実的な何か」であることを強調している。「実的」であるということは、何かあるものが精神の外に、精神とは独立に存在するといった事態を現わし、本来、精神による「形成」や「加工」を受け付けぬという含みを持つ。それ故、観念が「実的」であるという主張は、方法とは観念の「指令に従って」行くことであり、観念は人間の精神の内部に「独りでに」流れ込み、「おのずから」身を現わし展開するという表現及び主張とは一致し、ともに、『知性改善論』のスピノザの中で、『短論文』の信念が生き続けていることを明白に示し、かつ証するけれども、これに対して、人間の精神が「生得の力」により「道具」としての観念を「形成する」という比喩的な表現の方は、こうした基本的な信念からかなり外れ、孤立していて、比喩としては明らかに失敗していると言わなければならないし、また、『知性改善論』のスピノザにおいて、『短論文』を支えていた信念が生き続けていないことの証拠にはならないと思う。

『知性改善論』のスピノザにおいても、かつての『短論文』を彩っていた信念、すなわち、自分の側で選択や決定、評価の努力をしなくても、何ものかが顕現して、一切の責任を免れるコムニカチオのパラダイスへ自分を連れ去ってくれるという信念が、決して消滅することなく保たれていたことを明確に示す。そこで、従って、このように人間の精神が自分で選択や決定や評価を行わなくても、観念の方で「おのずから」身を現わし、「独りでに」展開してくれるものであれば、人間はこうした観念の「指令に従って」その顕現と展開の跡を虚心に従順に見守り、記述すれば良いわけで、個物の観念から出発して神の観念へと向かう第一の仕事も、神の観念を起点として「自然を再現する」第二の仕事の方も、ともに難なく完成すると考えられたのであった。

しかし、信念の枠組みに沿って哲学の道を指し示すことに意味があるとしても、いや、むしろ、一度その道が指示された以上、今度は、その道を実際に歩き、道の正しさを証することが始められなければならない。『知性改善論』がその前半において示した道の少なくとも最初の部分に足を踏み入れ、「独りでに」流れ込んで来て「おのずから」身を現わす観念が、一つまた一つ増殖していくプロセスを、言葉として文字として残して行かなければならない。正にこれが、『知性改善論』の後半においてスピノザが試みようとしたことであった。

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