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2012年7月26日 (木)

柴田寿子「スピノザの政治思想 ~デモクラシーのもう一つの可能性」(4)

第3節 デモクラシーの転換点

.ホッブスにおける「代表人格」論

大衆各人の力の合成によって共通権力を形成するという同一の最高権力論を共有しながら、ホッブスとスピノザとの間には、力の合成とは何かをめぐって考え方の落差が存在している。ホッブスによる力の合成の原理は次のように説明する。「これは、同意や一致といったもの以上のものであり、まったく同一の人格のなかへすべての人々の真の統一である。それは、各人すべてが各人すべてと行う信約によって形成される。それはあたかもすべての人に向かって、私はみずからを統治する私の権利をこの人あるいはこの合議体の権限の下へと放棄すると宣言するようなものである。ただしあなたが私と同様に、あなたの権利をそこに与え、そのすべての行動に権限を認めるという条件のもとでのみだが」。このホッブスのロジックにおいて留意されるべきことは、ルソーの社会契約論と同様、自然権の全面的委譲は平等な各人相互間で行われる社会形成の論理であり、すでに存在する共同体内部の主権者と臣民の間の支配・服従契約ないし統治契約とは本質的に異なるという点である。そして、大衆という多数者が一個の人格として意志し行為する集合人格の概念を重視した。このような多数者を全体と法的に同一視する集合人格の考え方は、絶対君主制の主唱者によってではなく、多数者による支配としての共和制を指示する思想的系譜によって展開されていた。しかし、他方で、このようなホッブスにおける「人格」の概念が、君主の個人的命令や独裁と結びつきやすいメタファーであったことは、否定しえない。

これに対して、スピノザはホッブス契約論のロジックにおいては、自然状態において各人が保持していた自然権としての力の総和と、契約によって樹立された政府の権利としての力とは等しい、ホッブスが立てた原則自体が成立していないと説く。そうした等式が成り立たないということは、各々の臣民の力の総和と政府の力とは不等式の関係にあるということになる。つまり、臣民の力の総和が政府の力より大きければ内乱、闘争、政府の無力や不安定が帰結するし、逆に臣民の力の総和以上の力を政府が行使すれば抑圧、独裁、隷属という事態が生まれる。この全く異なるかのように見える二つの政治状況は、実は表紙一体のものであり、ともにホッブスの社会契約論のロジックがもつ不徹底性とそこから帰結する不確実性、不安定性から帰結する。

.スピノザの政体論

スピノザもホッブスと同様の統治形態の分類を行う。しかし、いずれの統治形態であろうと「最高権力の権利」とは「一つの精神によるかのごとく導かれる大衆の力によって決定されている」のだから、君主政であろうと貴族政であろうと「国家が圧政に陥らないようにし、かつ国民の平和と自由が侵されることなく保持される」ような絶対統治に近い政治体制と機構を整備することは可能である。しかし、「あらゆる権力を一人の人間に委託すること」は「隷属状態を意味し、」君主制を積極的には推奨していない。一人の人間の生命と能力には限りがあり、強大な権力を一人で支えることも公共の福祉を十分に図ることもむりである。これに対して貴族政を評価している。彼によれば、最高権力の権利が大きければ大きいほど、つまり貴族政における最高会議が絶対的に統治権を掌握すればするほど、統治は危機にさらされることなく安定し「絶対統治」に近づく。「絶対統治」に近いとは、最高権力に対する大衆からの支持が厚く、大衆の自然権=力の結集や調達という政治過程が上手く機能し、平和と自由が維持されている状態を示している。会議が十分な大きさを保ち、十分な協議・傾聴・討論を経て意思決定が行われるならば、その意志は理性的方向に向かい、かつそれが「法」という理性的形式で表明されるという利点がある。結局のところスピノザが、完全な絶対統治であり人々に「平和」と「共感」をもたらすと考えるのは、「大衆全体が支配する」民主政、民主国家ということになる。

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