バーン・ジョーンズ展─装飾と象徴─(1)
都心でセミナーがあり、早めに終わったので、株主総会も終わったので、帰りに寄ってきました。蒸し暑い中、大手町から東京駅の丸の内側を北から南へ、汗を掻きました。三菱一号館美術館というのは、三菱UFJ銀行本店の隣の古いレンガ造りの外観のビルを美術館に流用したものらしい。入り口は道の裏側でパティオのようなちょっとした広場になっていてオープンカフェのようなテーブルが置いてあった。私の様な不粋な者には入り口が分かりにくいだけにしか感じられない。全体として、この美術館は古い建物の骨格をそのまま転用しているのか利用する側にとって使い勝手が悪いものでした。また、中の空調や仕切りやセキュリティなどは最新のものが設置されているようですが、それがしっくりしていないのが明らかで、取ってつけたような装飾にセンスが感じられない。実際にはまず、チケット売り場がわからず、荷物を預けるコインロッカーが見つからず、鞄を抱えながら展示を見ることになってしまいました。チケットを買ってからチケットの確認が狭いところで展示室に行くエレベータを待つのが狭いところで身の置き場に困る。さらに展示室は一つ一つの部屋が狭く(もともとの建物がそうなのでしょう)、それは仕方がないとしても、部屋の仕切りごとに自動ドアが設置されていて、展示時間中は自動ドアなのでしょうけれど、セキュリティのためというのか明らかで、何か監獄の扉を通っているような感じがしました。それと木の床は靴音が響いてうるさく、自身が歩くのにも気を遣うことになり、落ち着いて絵を見るという快適さは感じられませんでした。美術館自体は企画倒れというのか、アイデアはいいかもしれないが、実際の来館者の気持ちを考えてほしいと思います。こういう美術館に限って、結構いい展覧会の企画をするようで、残念です。無愛想なビルでいいから、快適に絵を見せる環境を作ってほしいものだと思います。
バーン・ジョーンズは英国の画家で、DGロセッティやJEミレイらのラファエル前派で描き続けた人です。展覧会パンフにある作品をみると、ラファエル前派の画家であることが一目でわかります。若いことに、ウィリアム・モリスに出会い、そこからジョン・ラスキンやダンテ・ガブリエリ・ロセッティらと出会って、ラファエル前派に入っていくことなるわけですが、正式な絵画教育をほとんど受けることなく、本人の努力もあり現場での修行で習得していったということだそうです。また、画家であると同時に友人のモリスがアーツ・アンド・クラフツ運動を進めて経営しているモリス商会で、その運動の成果ともいえるステンドグラスの下絵のデザインや家具の装飾の仕事に携わり、若い頃はそれによって生計を立てていたということで、今でいえばデザイナーのようなものかもしれません。そのおかげもあって、製作する絵画は画家自身の好きなものを好きなように描いていたらしく、取り上げられたテーマは神話や中世の伝説がほとんどだった。ラファエル前派のロセッティたちの耽美性や象徴性も、モリスのアーツ・アンド・クラフツによる装飾性も体現しているということから、この展覧会のサブテーマが「装飾と象徴」とつけられたのだと思います。
この展覧会のポスターやバンプに掲げられたのは、今回の展覧会の目玉と言うことになるのでしょう。「ペルセウス」の玲奈作の中の『果たされた運命:大海蛇を退治するペルセウス』ですが、ギリシャ神話の有名なエピソードで、生贄にされた王女アンドロメダをペルセウスが助けるというものです。様々な画家がこのエピソードを描いていて、それらと比べてみるとバーン・ジョーンズの特徴が見えてくるように思います。ここで、比較のために参考として掲げたのはギュスターブ・モローの『アンドロメダ』です。両者を比べて、まず思ったのはバーン・ジョーンズの作品には空間が感じられないということです。ギリシャ神話によれば、アンドロメダは海辺の崖に逃げられないように鎖で縛られているはずです。しかし、バーン・ジョーンズの作品にはそれが感覚として感じられない。強いて言えば室内のような感じです。たぶんラファエル前派の作品に少なからず共通しているので、前期ルネサンス以前にもどれということから空間として全体を把握するという鳥瞰的な観方を意識して排除しているのかもしれません。例えば、JEミレイの『オフィーリア』という有名な作品も小川に身を投げたというよりも室内ブールのような空間なのです。(ただし、ミレイはラファエル前派べったりの画家ではなく、後には距離を置くようになり、それなりに空間の広がりを感じさせる作品も描いています。だから、『オフィーリア』の場合は意図的にそういう空間の描き方をされていたとも考えられます)
次に感じられるのは、怪物である大海蛇に恐ろしさとかおぞましさのようなものが感じられないことです。モローの作品では海蛇とか大きさかないのですが、何となく見たくない、近くに来てほしくないようなものとして描かれているように感じます。しかも、曰く言いだけというのかハッキリとは描かれていないのですね。たぶん、神話としては大海蛇という具体的なものというよりも、人々に災いをもたらす恐ろしいもの。アンドロメダを生贄として要求するようなおぞましいもの。そういうものとして捉えられていたのではないか、と思います。だから、人々は恐ろしくて‘それ’を見ることはできないし、見たくもない。‘それ’の正体を知る者は生贄になった者だけなので、誰も知らないし、‘それ’そのものを語るのも恐ろしい。だから、せめて想像の範囲内にとどめて海蛇の大きなのとして、とりあえず詮索しないということなのではないかと思います。『ゴジラ』という怪獣映画で最初にゴジラが姿を現わすまで、映画の半分を要します。それまで、漁船が被害に遭ったことが出てきたり、魚の動きが異常だったりと何かがおこるという無気味な雰囲気を盛り上げて行きますが、ゴジラが姿を現わすにしても、尻尾の一部とか全体像はなかなか姿を現わさないのです。それが恐怖感を煽っていく効果をあげていたわけです。ところがバーン・ジョーンズの作品では、海蛇がまるで標本のように、それと分かるように描かれている。これでは、神秘性とか恐ろしさといったものを感じられません。
そして、画面を構成する個々の人物が非常に細かく丁寧に描かれていることです。例えばペルセウスの装束の説密な描かれ方は、足首についている羽根について羽の1本1本が丁寧に細かく描き込まれているようだし、着ている鎧の細かな襞までもが描き込まれているようです。それだけに神秘性がかじられない。まるで神話の英雄というというよりもコスプレのように見えてしまうのです。
もう一人の主要登場人物であるアンドロメダについても神話上の高貴な王女というよう、神秘化、理想化された姿ではなくて、実際の憧れの女性を裸にしてリアルに描いたヌード写真のように見えます。ペルセウスがコスプレなら、アンドロメダはグラビアのヌード写真のようなのです。
それだけ人物が現実の人物に近くリアルに描かれていながら表情がないのも大きな特徴です。神話上の登場人物なら半分神の様なもので、人間を理想化された姿として卑近な表情を敢えて描かないことにより神々しさを醸し出す効果があらわれます。しかし、バーン・ジョーンズの作品では人物は具体的でリアルに描かれていて、表情が描き込まれていないと虚ろな感じを受けます。ペルセウスには怪物を前にした怒りとか必死さのような表情はなく、アンドロメダにも怪物を恐ろしがったり、ペルセウスの勝利を祈る表情もありません。
これらは思うに、表情をつけることでアンドロメダやペルセウスの顔の造形が崩れることを画家が嫌ったのではないかと思います。後に、ピュグマリオンという人形の女性に命を吹き込む神話や眠り姫というテーマを描きますが、これらは人形であったり眠っていたりと表情がない顔と言うことになります。生き生きとして表情というよりも顔の造作に画家は引かれていたのではないか、と思われるのです。それは、だから今でいうと雑誌のモデルのグラビアに近い印象です。その付属品として衣装とか装身具といった細部を細かく描くことはグラビアを引き立てることになります。逆に空間という全体像を提示して、そこに位置づけるとモデルは全体の一部になって後景に退くようなことになってしまいます。つまりは、この作品で言えば2人の美男美女、もっというとイケメンとアイドルを描きたがったではないか、彼らを引き立てるために神話の舞台装置が適していたのではないか、ただし神話が前面に出ると彼らが霞んでしまう。そのバランスを考えて、このような作品として出来上がったのではないか。ということを感じるのです。このような視点で、個々の作品をさらに観て行きたいと思います。
これは、現代の展覧会で見ている私が勝手にそう感じていることであることは言うまでもありません。当時にコスプレなどということはなかったのですから。
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