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2012年7月20日 (金)

マグリット展「不思議空間へ」(4)~「大家族」

Magdaikazoku マグリットの作品の中でも、とくに有名なもので、広告や宣伝ポスター等で広く用いられ、マグリットの作品と知らなくても、目にしている人は少なくないと思う作品です。このような風景の中である形の輪郭を切り抜いた青空を、強調するような形で全面に出すというパターンで、広く引用されていると思います。マグリット自身も、このパターンを何度も取り上げています。例えば1966年の「王様の美術館」、1960年の「愛の法廷」、1951年の「誘惑者」、「大潮」、1940年の「帰還」、1931年の「夏」等が今回のマグリット展の中で展示されています。面白いのは、他の画家であればテーマとか題材というものを何度も繰り返し取り上げて、そのテーマを掘り下げたり、違った視点から描いて拡がりを与えたりすることが多いのです。しかし、マグリットの場合は、そうことは皆無で、代わりにこのようなパターンを繰り返し取り上げて作品を制作しているのです。パターンですから掘り下げることは出来ず、異なる視点で拡がりを与えることも出来ません。そこにあるのは反復です。そこにあるのは、パターンの独り歩きともいった現象です。何を描くかという内容よりも、その描かれるパターンの方が優先されるというわけです。

こじつけて、難しい言葉を持ち出すと“シュミラークル”という、言うならばオリジナルをもたないコピーという説明概念が思い浮かびます。例えば、あるブランド商品は品質や信用の伝統の結果打ち立てられたものですが、それがブランドとして独り歩きし始めると、それを買う人々は商品の品質を求めるのではなくて、有名で高価なブランドを買うことで満足し始める。究極には、商品がなくてもブランドパッケージだけでも満足してしまうことになる。そこでは本来の内容とん実質といったものは後回しにされてしまう。だから、まことしやかにブランドのロゴマークがついただけの模造品商売が成立しているのです。

このようなことは、マグリットが描く個々の作品が、どこか薄っぺらく、まがいものめいた感じを受けるのは私だけでしょうか。パターンが繰り返されるという反復が重ねられ、本物らしさが無限に希薄化していって、偽物めいたものになっていくと、シュミラークルに近づいていく。本物とか偽物といった区別が無効となって、それゆえに個々の作品の独立性の前提となる同一性がなくなってくる。これが、さらに推し進められると現実のリアルという足場を失って、普通のリアルな感覚をベースに異常な世界とのズレを作品としていくことから、それらの境界がだんだんなくなって、行きつく先は普通のリアルという足場に逆影響を与え、現実という前提そのものが不安定化させていくことになる。このバランスを失ってしまうと、マグリットの不思議な作品世界というものが崩れ落ちてしまうでしょう。そのような危ういバランスの上に乗っている。それが、マグリットの作品の限界と言えるのではないかと思います。

一方、具象といい抽象といいますが、西洋絵画というのは、常に何かを描いてきたものです。それがテーマという言葉に収束されていると思います。具象は現実の何かを描いているから分かるが、抽象画はもとの形がないのだから、と疑問に思われる方もいると思いますが。キャンバスでも紙でも白い平面に、とにかく線を引いても、絵の具を塗っても、そこに何かが線とか面とかというのが残るわけで、それが描かれた形ということになるわけです。具象画のように現実のモデルを写したというものではなく、描いた画家が描いたものに対して何らかの価値づけを行って、それを見る人に提示することになるわけですから、ある意味では、具象画以上に「描かれたもの」というのに対する切迫感は強いとも言えます。つまり、結果であれ、目的であれ、何かを描くというのは、西洋絵画が絵画として成り立つための条件のようなものと言えます。だから、まんがやイラスト、挿絵のようにものを芸術絵画のハイカルチャーに対して、サブカルチャーという差別していたわけです。しかし、マグリットの作品は、ここでも言うように何を描くということよりも、パターンを繰り返し提供するということを追求しているように見えます。ハイカルチャーである絵画の存在意義を否定するようなものであったのではないかと思います。そこに、マグリットという画家の突出したところがあったのではないか。さらに言えば、そういう絵画であったからこそ、大衆が登場した大量消費社会における宣伝という媒体で、マグリットの方法が真似されて、多数の偽マグリットを輩出させたのではないかと思います。もともと、日本の絵というのは、とういう自意識のようなものはなくて、まんがとの境界もきわめて曖昧な社会で、マグリットのような表面的な作風というのは、馴染み易かったのかもしれません。

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