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2012年7月17日 (火)

マグリット展「不思議空間へ」(2)~「アルンハイムの領地」

Magaru まず、今回の展覧会のパンフにも使われた「アルンハイムの領地」について、最初のところで具体的に触れなかったので、ここで見て行きたいと思います。

猛禽類の頭部の形をした岩山を遥かに望み、手前には卵が置かれています。岩山と卵という普通に考えれば無関係なものが描かれているものが、岩山が猛禽の頭の形をしていることで、何か関係ありげな意味を詮索するような気になる、という作品です。

実は、鳥の頭の形をした岩というのを、マグリットは別の作品でも用いています。1950年の「行き止まり」という作品や1957年の「青春の泉」という作品です。このうち、「青春の泉」の場合は、体裁はモニュメントのような人工的に作られた彫刻のようなもののように描かれています。また、「行き止まり」という作品では留まって羽を休めていた鳥が石化してしまったもののように見えます。とくに、「行き止まり」では、鳥の姿がそのまま石と化したというところに一種の驚きを誘うところがあります。これに対して、「アルンハイムの領地」では、岩となっている鳥の形態は頭部と羽の一部に限られています。これは、見る人にとっては鳥がそのまま岩となっているような驚きが最低限に抑えられています。場合によっては岩が鳥に見えるかもしれないと思うようなギリギリのところにある。これは、マグリットが同じ鳥の形をした岩を描いていても、それを見る観客の眼差しが違ってくるように意識して描いていると思われます。鳥がまるごと石化してしまえば、それは異常なことで、見る人は驚きます。しかし、それは一瞬のことにすぎません。普通でないことを目前にすると人は驚きますが、それに慣れてしまうと普通のことになってしまうのです。そうなったら驚きもなくなってしまいます。これに対して、実際にあるかもしれない鳥に見える岩山がらしく描かれていると、見る人の見方によって、それは普通のことにもなりうるし、驚きを誘うことになり得るわけです。そうすることによって見る人は緊張を強いられることになります。当然、その部分に視線を集中させ、「何かが隠されているかもしれない」という疑惑をもたせ、想像力を掻き立てさせるのです。そして、「アルンハイムの領地」では、その鳥の形をした岩山は、山脈の一部としてさりげなく描かれています。それほど強調されているわけではありません。つまり、この描かれている光景は、マグリットの世界として決して特殊なものと描かれているわけではない。普通の光景と同じように描かれています。大事なのは、異常な光景を見せるということではなくて、普通の光景との相関関係でみる人にとって、らしさ、というのか、らしく見える、ことなのです。ここに通底しているのは、異常とか驚きを誘うというのは、普通の空間を壊してしまうようなことではなくて、普通の光景と異常に光景は結果的に共存しているということです。どういうことかというと、「アルンハイムの領地」での鳥の形の岩山を単に異常なものとみる人を驚かせてしまうと、そこで終わってしまうので、異常か普通かの間で宙ぶらりんにすることで、普通の空間が破壊されるまでの張りつめた緊張感を醸し出させるのです。そこには、普通の空間には、その影には異常な、普通を破壊してしまうようなものが隠されているということです。そういう視線で画面をみると「何かあるのかもしれない」と余計な想像を働かせてしまうことになります。

Magkikan 次に、卵と鳥の形をした鳥でないものとの組み合わせというパターンは1940年の「帰還」という作品でも用いられています。一般的な「騙し絵」ならば、タネは一回しか使えません。手品のようにタネを隠すことができないのでパターンが一度知られてしまえば、既知となって次回は見る人を驚かすことは出来なくなります。しかし、マグリットは、バターンを繰り返し用いて洗練させながら、使用を少しずつズラしていきます。この「アルンハイムの領地」が制作された1960年当時は、マグリットは既に大家として名を知られた画家であり、その作風も周知されており、見る人の多くは既に発表された画家の有名な作品を予備知識として持っており、そのような準備をしてくるなかで、「何かありそうだ」という想像をすでに働かせてくるといえます。そのときに、他の作品で既に使われた周知のパターンを、見る人に分かる程度にズラして用いることで、何が変わり、何が変わっていないか、詮索させる気を起こさせる。そこには、見る人にとっては、これだけ画家のことを知っているという優越感を鼓舞させることにより、尚更、そういう気分を煽るのです。

そして、この「アルンハイムの領地」にも「帰還」にも特徴的な点は、卵は手前の窓枠の桟のような狭いところに置かれていて、鳥の形をした岩や空の切り抜きは窓の外の風景のように描かれているということです。つまり、手前の卵と後景の鳥の形をしたものは違う空間にあって、それを窓枠の様なものがしきっているのです。しかも卵はその境目のような窓枠の桟の狭い空間にある。これを見る人にとっては窓枠がこちらとあちらを分ける境界であり、卵はその境界の狭い隙間に置かれ、こちらにもあちらにも落ちてしまいそうな不安定な存在のように見えます。そこに、まるで劇場のような虚構の空間で観客が場を共有していながら、虚構に参加できるようで参加できない、しかし、目前で手に取るように起こっていることが分かるという立場に置かれる。つまり、この絵を見る人は劇場の観客のように目の前のことは全て見えるにも拘らず、手を出して参加することができない。そこで、目の前の絵では、いかにも「何かありそう」に描かれているといえます。

最後に、このような効果を最大限に生み出すように、全体としての描き方が非常に分かり易く描かれているということです。絵画という一般的な概念にもっとも適合するように、何が描かれているかが明確で、画家の個性的な表現とか感情の吐出のようなことは注意深く排除されています。しかも、描き込みはシンプルで、キーとなる卵や鳥の形はさりげないけれど、ハッキリそれと分かるように描かれている。分かり易くするため、画面は具象でありながら余計な要素は注意深く排除され単純化されている。多分、描く前に画面構成は画家によって綿密に設計され、アドリブ的な要素は微塵もない完璧主義といっていい画面になっています。画面が単純化されることによって、見る人はそこにある要素に何らかのシンボルのような意味づけを与えやすくなります。ということはそれが印象に残り、何度も注目することなる。卵と鳥の形を繰り返し見返すことで、見る人が自ら進んで意味を読み込むように仕向けているというわけです。

展覧会カタログの解説文で、マグリットの「見えるものは他のものを隠す─私たちは常に、見えるものによって隠されたものを見たいと願っています。隠されたものと、見えることが私たちに見えなくしているものに関心があるのです」という言葉を引用しましたが、これは以上述べたような視覚設計による効果のことであるように思われるのです。そして、マグリットの場合は、このよう視覚効果そのものが作品として結実していると言えと思います。そこは、心理学的要素とか哲学的要素などというのとは、別の物のように思えるのです。

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