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2012年8月28日 (火)

大津真作「倫理の大転換 ~スピノザ思想を梃子として」(2)

真理と虚偽について

真理と虚偽について、スピノザは『短論文』の最後の方で、この問題を次のように解説する。「真」とは、「事物について、事物そのものと一致することを肯定か、否定か」で答えることを意味する。したがって、「偽」とは、それとは逆に、「事物について、その事物そのものと一致しないことを肯定か、否定か」で答えることを意味する。だから、真偽というのは、その人間の信念や意欲の問題であって、嘘をついているかいないかは、問題ではないのである。真偽問題を、いわばこんな奇妙奇天烈な形で提起した思想家は、空前にして絶後であろう。また、真理を語るために必要な自由というのは、至高のものでも、最高のものでも、最強のものでも、無制限なものでも、無制約なものでもないということである。自然法則や社会法規を自分の意志や信念の赴くままに、勝手に破る自由は人間にはない。「本当の」真理は自己基準だからである。

 

残酷なカント

いまや、人間がつねに真理を語る自由を持った存在であるのかどうかを問わなければならない。言い換えると、人間はつねに真理を語る義務があるのかどうか、嘘をついてはいけないのかどうかを問わなければならない。

人間の自由をどのように見なければならないか。この問題を考えるために、近代性を超克したスピノザの自由観とは正反対の立場に立つカントの意見を聞く。彼は、人間の自由について、それを至高のものと見なし、すべての人間にア・プリオリに与えられているものだと断言した。しかし、カントが言う人間の自由には、制限が付いている。それはね自由の代償として、最高の道徳行為を持たなければならない、というものである。彼は、いついかなる時でも、人間は良心に恥じない道徳的な振る舞いをすべきだと説いた。人間の行為の善と悪、正義と不正、真と偽は、すべて、人間の先験的自由に属するものであるからである。「先験的」という形容詞は、「経験を超えた」、「超越的な」という意味であり、その意味で絶対的なものを指す。カントは人間の自由を周囲の自然環境からも切り離す。カントは、人間には「先験的自由」があるのだから、犯罪者が「正気」で、「自由を行使していることを覚えていたのなら」、犯罪の責任は犯人に帰すると言いたいのである。しかも、不正義の行いをする自由も、不正義の行いをしない自由も人間には与えられているから、当座の欲望にそそのかされて、不正義の行いをしない自由も人間には与えられているから、当座の欲望にそそのかされて、不正義の行いに走るのを拒否しないのは、その人間の責任だとカントは言いたいのである。このような超越的な自由を行使する義務がつねに人間にはある。さらに、人間の性格も、本人が「自分自身で手に入れた」ものである。個人の性格は個人が責任を負わなければならないのである。どこまでいっても犯罪には個人責任がつきまとう。つまり、ここで人間に与えられている、罪を犯したり、犯罪に走ることを拒否したりする自由は、実は無制約で高貴な至高の自由なのだ。ここでは、人間の犯罪行為の責任という分かり易い問題が提起されている。であるのに、自然必然性にあらがう人間の至高の自由が問題になるのはなぜか?それは、人間主体が行為を、みずからの責任と選擇において、主体的に行うものだということが前提とされているからである。しかし、人間主体の行為は、白紙の状態で行われるのではない。必ず、なんらかの外的環境の制約を受ける形で行われる。そうすると、たちまち、人間の自由と外的必然性との関係が問題になるのである。要は、どちらかの力が強いのである。

カントの自由の定義からは、いついかなるときにでも、人間は自分の行為について責任を取らなければならないという、凡百にありがちな結論が出てくる。人間に与えられた自由は、「自然法則」にも、時間的継起の秩序にも囚われないという。この自由観はスピノザのそれてはまったく相容れない。また、この自由のカント的定義からは人間はいつも真理を守り、嘘をついてはいけない、という義務を生じる。したがって、理性は、行為に対する経験的与件がいくらあっても、それ自身完全に自由であって、彼の行為、理性がこの際、何もしなかったということ、すなわち、理性の不作為にすべてを帰されねばならない。このような人間の能力を過大視する人間中心主義は、諸刃の剣となって、人間に負えもしない責任を転嫁する残酷な反人道主義に転化する。

これに対して、人間の能力を決定的に奴隷的で受動的なものと見るスピノザは、アンチ・ヒューマニストであるがゆえに、人道主義者である。彼は、真と偽を人間の有限な能力の問題に還元し、それを神即自然の真理から決定的に切り離す。神即自然の真理は、有限で一時的な人間の行為からも無縁であり、ましてや人間の意志とか欲望とかと、まったく関係がないのだ。もっと言えば、神即自然の真理は、真理でもなく、現実そのものでしかない。神即自然では、すべてが真理で、偽というものがないから、結局、真理もないということになる。だから、一般的に言われている人間の真と偽は、人間の認識だけにか

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