無料ブログはココログ

« 大津真作「倫理の大転換 ~スピノザ思想を梃子として」(3) | トップページ | あるIR担当者の雑感(85)~プレゼンテイション考 »

2012年8月30日 (木)

大津真作「倫理の大転換 ~スピノザ思想を梃子として」(4)

第1章 『エチカ』が提起する問題

アリストテレスにとっての倫理学

倫理学という学問分科でアリストテレスが探求したことは、プラトン以来の「最高善」であると言われている。しかし、実際には、彼は、エーチカという学問の中で、このような抽象的で、理念的なことを探求するよりは、むしろ、いっそう現実的で具体的な対象を設定していた。彼はこの学問において、人間活動の目標である幸福はいかにすれば実現するかを探求した。いつの時代にも、倫理学というと、道徳義務論と混同されがちである。しかし、アリストテレスは倫理学を人間の幸福追求のための学問と定義したのである。これはたいへん長い射程を持った倫理思想で、時代をはるかに超えて、スピノザにも受け継がれた。人間の幸福という視点から倫理学を見るということは、究極のところ、人間的欲望の実現を倫理学の目標とするということになる。倫理学は、人間的義家を定める学問ではなくなって、いわゆる道徳論からは切り離される。むしろそれは、人間的自由を追求する学問となり、現代で言えば、経済学や政治学の目標と重なってくることになる。人間の幸せを実現するためには、単なる精神論では、まったく済まず。もっと物質的で、きわめて多面的なものを基盤にしなければならないからである。人間の安全と食料確保という「幸福」のことを考えると、これは自然科学の目標の一つにさえなっていると言っても過言ではない。

学問用語としてのラテン語

『エチカ』はラテン語で書かれている。ラテン語は当時の一般大衆が使う言語ではなかった。キリスト教が4世紀初めに支配者の体制的宗教となるとともに、一般大衆から遊離し学問的になって行った。もともとキリスト教では神を信じるということはロゴスを信じることとされた。ロゴスとは言葉とか論理とかいう意味だ。このイエスの時代の公式言語であったラテン語によって宗教教育が行われていた。一方、学問の世界では公式言語として共通言語を必要としており、ラテン語はそれに応える者であった。これらの点から、『エチカ』は純粋に学問と学問に関わる人々に向けて書かれた書物であると言える。スピノザが使用している専門用語はアリストテレスを尊崇した時代にうまれたキリスト教の神学用語であった。

もともと、スピノザの家庭ではポルトガル語とスペイン語が話されていた。だから、スピノザにとってラテン語もオランダ語も母語ではなく習得した言語だった。この時代、印刷術の発展により読者層が広がり、庶民の言葉で書かれる著作が増えていた。その中で、『エチカ』がラテン語で書かれたのは、秘教性のゆえとも宗教弾圧を恐れてのこととも考えられる。

スピノザの倫理学はなぜ神を論じるのか

スピノザが倫理学の究極目標として掲げたのも、人間の幸福の実現だった。しかし、スピノザの場合は、厳密な条件が付いている。彼は人間の「真の、最高の幸福」、言い換えると人間の「絶対的な至福」を探求し、それに到る道筋を明確にしようとしたことということである。人間の幸せに、「絶対的」という形容詞をつれるのは、スピノザが「真理」を意識しているからだ。つまり、彼が構築しようとした倫理学は、人間の最高の幸福にかかわる真理に根拠づけられもので、その意味では、ある種の科学と言える。だからこそ『エチカ』は数学的形式を採用した。

このような目標を掲げた時に、追求すべき課題は二つある。まず、人間を包んでいる環境としての世界の法則を探求しなければならない。スピノザはそれを神と言い換えている。だから、第一部は神の本性を確定することに向けられている。万能にして普遍の、存在する神とは世界であり、「神即自然」である。したがって神の本性は自然法則と同じだ。スビノザの鋭い論理一貫性は、神に対する人間の淡い期待をも否定する。つまりも、神は人間の一般的な幸福や幸福願望と縁もゆかりもない、というのである。自然の一部に過ぎなす人間が自然を左右できないように、神の一部にすぎず、しかも、極めて限定された一時的様態に過ぎない人間存在には、そもそも神に対して、神信仰と引き換えに、自分たちの願望の実現を依頼することなど出来ない。となると、ここで重大な倫理学上の大転換が起きる。すなわち、神は人間の幸福を願ってなどいないということだ。人間が勝手に想像で作り出した神像では、神の正義は、必ず「義」とされた人間、したがって、倫理的で有徳な人間を救うことになっていた。いわゆる奇蹟というものはこのようにして起こる。しかし、スピノザにとっては、無機質の自然が通常の倫理的規範を一切守らないように、神もまた、人間あるいは人間の理性にとっては、ある意味で無慈悲、無機質なものだ。

自然の力を前にして、それに思うがままに翻弄される人間は、経験上、あくまで被害者であり続けることに利益を見出すものだ。もしも、万事が人間の責任において起こっていると考えると、あまりにもしばしば生じる災厄のすべてに、人間は対処していかなければならなくなる。それは、人間の物理的力量を逸脱している。神が怒りの神に見え、神が人間に対して劫罰を加えようとして、悪魔を手先にしているように見えてくる。恐怖とストレスで、人間は気の休まる暇もない。人間の堕落を咎めるプロテスタンティズムが持つ圧倒的な暗さの原因はここにあると同時に、人間が最大の禁欲である労働にいそしまなければならないと衝迫される原因もここにある。しかし、人間の責任を問い続けるプロテスタントの近代的教義においても、従来通り神による奇蹟と罪の許しが現世において用意されているカトリックの教義においても、人間は、つねに被害者であり続けられるのである。

« 大津真作「倫理の大転換 ~スピノザ思想を梃子として」(3) | トップページ | あるIR担当者の雑感(85)~プレゼンテイション考 »

スピノザ関係」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 大津真作「倫理の大転換 ~スピノザ思想を梃子として」(4):

« 大津真作「倫理の大転換 ~スピノザ思想を梃子として」(3) | トップページ | あるIR担当者の雑感(85)~プレゼンテイション考 »