柴田寿子「スピノザの政治思想 ~デモクラシーのもう一つの可能性」(10)
第2節 「人民」における自然法と「大衆」における徳
1.アルトゥジウスとグロティウスにおける「人民」とスピノザの「大衆」
独立戦争の勝利が確実になると、「人民」は抵抗権を正当化するという目的だけでは語りきれなくなり、人民主権の正当性を集合的に法や議会の機能に求めることだけでは不十分となり、政治的なものを人民の構成員として個々人に担わせ、個々人の要求や利害を来示的権利として設定し、そこから人民の主権を演繹拗ね必要が生ずる。こうした共通の課題はアルトゥジウスやグロティウスの政治理論の中にも見出される。
アルトゥジウスによれば、人民とは仮想の烏合の衆を意味するのではなく、「ひとつの統合された王国のメンバーとして社会化された集合体」、つまり市民生活における共生様式に組織化された人々のことである。共生様式とは、人々が社会的必要に迫られて財・労働・サーヴィスを交換し合い、法すなわち権利を共有しあうことから生まれるものであり、具体的には家族、組合、村、町、州等のことである。このような共生様式は、人民の主権を体現した国家そのものであり、その成立根拠は、個人の利益追求と自発的意志と契約に求められている。しかし個人の利益追求によるだけでは生活共同体は形成されえず、それは人間が本来持つ社会本性や自然的な相互結合を各人に促す「自然法」といった共同体意識によって補強されなければならない。しかも各人は、各種団体に統合され団体内で妥当する権利を享受し義務を遂行する限りにおいてのみ、国家の主権者たりうる。アルトゥジウスは、個々人が主権者であるとは決して規定していない。
アルトゥジウスが社会的本性を述べているのに対して、グロティウスでは人間の社会性や自然法は個人の自己保存欲の一種ないしはその延長上において規定され、近代的な自然法論の理論構成に接近してくる。人間は自己保存欲と同時に「社会的欲望」と言語を介した総合的判断力を持つが故に、「理性的かつ社会的な人間の本性」に基づいて自然的な「社会の保護体」を形成できる。こうした人間の本性は、「他人のものを侵さないこと、…約束を履行する義務…人々のあいだにおいてその罪に従って当然の罰を課すること」を命じる「自然法」にも合致している。それ各人の功利追求の心と相反するものではなく、人々は「現在及び未来のことに関して、いかなるものが有利か、有害であるかを決定する判断力」を持っているが故に、自然法を遵守することができ、集合体の中で明示的ないし黙示的に契約を行うことができ、国家形成と市民法の制定が可能なのである。しかし、グロティウスにおいては、個人の自然権および自然状態の概念は確立されていない。グロティウスのいう個人=自然人は、妻、家人、奴隷、家来を含まない「家長」を指している。それゆう、個々人はすべて平等な権利と義務を持つわけではない。
2.公共的「市民」における道徳的自然法
こうした無既定な個々人の集合体たる大衆は、いかなる原理にもとづいて新しい政治社会を形成しえるのか。個々人がたんに自己保存を追求しただけでは、相互敵対的な自然状態が現出するのみである。ホッブスにおいては、大衆が相互的な契約へと導かれる契機は、死への「恐怖」と未来に快適な生を求めようとする「希望」の情念、及び人々が同意し得る平和の諸条項を示唆する理性とに求められた。理性とは各人が自己保存のために自らの力を用いる上で、最も適切な手段を自由に判断することである。そうであるからこそ理性は、戦争状態において自らの自然権を無とする可能性よりも、「平和に対する希望」と「平和に向かって努力すべきだ」という第一の基本的な自然法を選択する。ホッブスにおいては、国家成立とその後の国家運営に際し市民相互間および市民と代表主権とのあいだの政治的同意の基礎に、なんらかのかたちで自然法を基礎にした道徳が存在していた。しかし、ホッブスにおいても、自然法を順守しえない人々がいることは考慮されており、それゆえ市民的権力の樹立とそれによる強制と制裁が必要とされた。ホッブスにおいては、大衆は国家契約の場にのみ現われ、その後一切登場しないが、それは国家を形成している人々は、自然法を遵守している点でもはや大衆ではなくも主権者擁立の責任主体としての市民である。
これに対して、スピノザはホッブスとは全く異なる前提を立てる。スピノザは、大多数の人々が理性の立場に立ちえないという現状認識からさらに一歩進んで、人間が理性的ではないこと、感情や欲望を制御し得ないことは、その人間の資質、環境、教育によるものではなく、人間の置かれている自然的位置からして必然であり、むしろそれが自然法則としての自然法であると看做す。さらに、ホッブスにおいて理性に到る道程で有効に機能すると考えられた言語、熟慮、意志などが理性を形成し得る直接の手立てとはなりえない。スピノザは、個々の感情がどのような自然的社会的原因によって発生し、その後どのようなメカニズムで拡散、変形、増殖していくかを詳細に検討している。その結果自己と他者ないし他物との関係性を自己保存と言う目的に照らし合わせて的確に判断すると言う、人間本来の認識機能は正常に作用することはない。ホッブスの言う自然法を認識し得る理性が近代的な市民意識と道徳を、そしてさらには近代的な政治能力を示しているとすれば、スピノザの言う個々人の集合体は、市民的資質と政治的能力を欠如させている点で、まさに「大衆」と呼ぶに相応しい人々である。
このようにスピノザが論じている感情・欲望の増殖と奇形化のメカニズム、およびそれに従属する人間の姿とが、近代市民社会一般に共通する自然法則としての社会現象であるとすれば、近代国家が前提としている市民的道徳を有した個人は、まさに近代社会の政治経済体制そのものの法則性のゆえに成立不可能であるというジレンマに置かれていることになる。
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