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2012年8月19日 (日)

生誕100年 船田玉樹展─異端にして正統、孤高の画人生(2)

第1章 画業の始まり




Funadahananoyuu_2


船田が画業に入ってから戦後までの作品が展示されていましたが、はっきりいって習作というのか、いわゆる日本画らしい日本画は、私にはちっとも面白くないです。日本画をよく知らないので、船田の師匠として紹介された御舟も古径のよく見たことがないので、2人の作品の違いもよく分かりません。だから、利休だか誰だかの人物画は下手なデッサンの塗り絵みたいだ、何か借りてきた猫のようでした。それは、その後の「花の夕」を見てしまってからいえることなのでしょうが。そこで感じるのは、“らしく”描けないというのでしょうか。どんどん筆が動いて行ってしまうのを、かろうじて抑えているという感じがします。

古径は繊細な線が特徴だそうですが、この「花の夕」を見ていて、繊細な線があるでしょうか。樹木の幹にしろ、枝にしろ、むしろ骨太で、陰影とか立体感とか、遠近とか、あまり気にせず一気に引いてしまったというような力強さです。幹の下の方は、陰になっているということからか真っ黒な太い線です。でも、花が咲いているだけなら、そんなに陰になるはずはないので、画家がそのように線を引きたかったとしか思えません。そして、花です。何の花か分らない。というよりも、本当に花なのだろうか。一応の日本画の屏風で、木の幹が線で引かれていて、そこに紅色の丸がボタっとあれば、花と思うでしょう。それで花だということで見ています。でも幹に比べると不自然に大きい、では果実かというと、そんなに沢山ついているのはおかしい。そもそも、花とはいっても、花弁が描かれといるわけでもなく、ただボタっと紅色の絵の具が丸く塗られているだけ。それが、画面を覆い尽くすようにボタっ、ボタっと無数にある。紅が朱にと多少の色分けされているけれど、この原色のような鮮やかさ、一緒に展示されていた御舟や古径の作品と比べるとショッキングなほど刺激的に目に跳び込んできます。見る人によっては紅梅だ(ところどころに白の塊もある)とか桃の花だと言う人もいるようですが、抽象化された花という見方もあるようですが、あまり面倒なことを考えずに、紅い塊の塗りの迫力に素直に圧倒されていたいと思います。私には、画家が嬉々として紅い絵の具で画面を埋めていく様子がなんとなく想像できてしまうのです。実際、後年には、こんなものではない程、もっと徹底して画面を埋め尽くすような作品がどんどん出てきます。このころは、未だ全部出し切っていなかったのではないかと思います。

Funadakouyou


「花の夕」ですが、画像では目立たないのですが、真ん中右手に白い大きな丸が描かれています。多分、月なのでしょうが、樹の幹の前に出てきているという不思議な構図になってます。こんどは、その上に花の紅いボッチが置かれていて、その対照が、幹の黒、月の白に対して花の紅が一際目に強調されていて、そういう目で見ると、下半分の余白と、上半分の紅いボッチで埋め尽くされた部分の対照が絶妙で、おそらく、そのために後年の作品のように、見る者を疲れさせてしまうことから免れているのだと思います。

同時に、歴程美術協会で一緒だった丸木位里らの作品も比較のために展示されていますが、似たような大作で画面を塗り固めるような作風ですが、どこか重苦しい、硬い感じが強いします。これは船田の作品からは、ほとんど感じられないものです。

1941年の「紅葉」も下半分の、紅葉というよりは紅い靄、というよりは紅の絵の具をとにかく塗りたかったかのような、風景が赤のグラデーションだけで描かれているのは、圧巻です。上半分の山の風景(もしかしたら家の屋根?)が、かろうじて日本画らしさを取り繕っている感じですが、焦点は全体の3分2を占める下の紅い世界です。赤一色の世界で赤のグラデーションで木々や紅葉の葉っぱの様子が描き分けられています。画像はありませんが、並んで展示されていた「夜雨」は夜のお堂に降る雨を黒一面の画面で黒のグラデーションで描き切っています。

大作「大王松」は、果たして松の画なのかどうかわからないくらいに、松葉の緑の線が縦横無尽に引かれ、その快感に翻弄されるような作品。

戦後に描かれた「暁のレモン園」は夜明け前の暗がりの中で、レモンの黄色がまるで灯かりのように光っているように見える。全体の闇が立ち込めるように群青のような濃い青のグラデーションでレモンの葉や茎が描き分けられています。この作品はレモンの黄色というアクセントがありますが、「紅葉」は紅で、「夜雨」は黒で、それぞれ画面全部を塗りきってしまう、そしてその塗りきった色のグラデーションを用いて、内容を表現しているとても印象深い作品です。これらの作品を見ていると微妙な色彩の塗り分けに、単に大胆とか力強いだけではない、繊細なセンスも持ち合わせているのが、わかります。しかし、それが繊細だけで終わらず、大胆な画面の中で隠し味のように活かされているのを見ると、この画家の力量の奥深さが分かるような気がします。

Funadalemon


船田の作品を見た私の印象は、全く作風も違うのですが、ヴァン=ゴッホを想ってしまうのです。とくに、この「暁のレモン園」は色調が似ているので、有名なゴッホの「ローヌ川の星月夜」という作品を想ってします。たんなる一個人の独断的な主観によるのですが、思わず画面を厚く塗ってしまいながら、重苦しいとかそういうことは感じずに、純粋に絵とか色彩の力強さが伝わってくる、デッサンは下手な所も似ているし、それよりも画家の本能的とでもいうような頭で構成するとか、コンセプトを考えるというのがなくて、筆が自然と進んで行ってしまったら、こんなものが出来てしまったというような感じが、何かとてもよく似ているような気がしました。ゴッホのそうですが、船田玉樹という人も生涯やエピソードからものがたりがふくらんで誤解を受けやすい気がします。今回の展覧会のコピー文言も、下手をすると誤解を招くかもしれないことに、多少の危惧を感じないでもないではありません。私は、この画家の実際の人を知らないので。無責任なことは言えないのですが、あまりものがたりをつくる必要はないのではないか、例えば孤高の画家、とかいうような、そんな気がします。実際には、そうやって売れないと困るのでしょうが。

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