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2012年8月 3日 (金)

柴田寿子「スピノザの政治思想 ~デモクラシーのもう一つの可能性」(11)

3.「悲しみと憎しみ」の共同性から「喜びと愛」の共同性へ

スピノザは、大衆の中にどのような共同意識のメカニズムを見たのだろうか。

スピノザは、心身平行論を基礎に、「我々の身体の活動能力を増大させたり減少させるものの観念は…我々の精神の思惟能力を増大させたり減少させたりする」のであり、我々は精神の能力の増大を「喜び」、その逆を「悲しみ」として感じ、また我々の「精神は身体の活動能力を増大しあるいは促進するものをできるだけ表象しようとつとめ」、逆に「精神は身体の活動能力を減少させあるいは阻止するもの」の存在を排除する事物をできるだけ想起しようと努めるという、感情の法則を確認する。さらにある事象が外部の原因となって喜びがもたらされるという表象にもとづいて、その事象を所有したり維持しようと努めるのが「愛」であり、その逆の場合は「憎しみ」となり、こうした喜悲・愛想を指標として欲望が必然的に増幅・複合・転写され、多種多様な感情が発生する。とすると少なくとも「悲しみ」や「憎しみ」は人間の無能力の指標であり、他方「喜び」や「愛」やそれに連なる欲望を感じている点は、なんらかの点で「精神が自己自身及び自己の活動能力を観想している時」であり、その場合には「真のあるいは妥当な観念」を、つまり理性を有している可能性がある。

ただし、「喜び」や「愛」はあくまで表象であり、そのまま理性連なっていくものではない。ある表象が我々の心身と外部との相互関係性から必然的に生起する秩序連関を普遍的法則によって把握する認識能力が理性であり、またそれを個別的な場における必然性によって把握する認識能力が直観知だからである。「喜び」や「愛」は表象の集積を必然的に理性へと方向づけ連結させるのに役立つ。

4.スピノザにおける能動感情論─共和主義的徳から宗教的感情へ

スピノザは「各人が自己の功利を追求するよう、あるいは自己の存在を維持しようとより多く努め、かつより多くそれをなしうるに従って、それだけ徳があると言われる」とみなし、徳である能動的感情を列記する。しかし、共和主義のパラダイムが、よき政治体を維持し公的生活を営むために市民が必要とする自己統治能力及び普遍的善や正義の追求に参加し得る道徳的政治的資質、さらには偉大な立法者や独裁者が公的個人として持つべき徳について義面を展開してきたことに対して、スピノザは消極的である。つねに絶対的権力を持つ独裁官に対する恐怖によって、統制、抑圧されている国家は安定的であると言うよりも必然的に危険に陥ると警告する。愛国心や金銭的ないしは公的名誉心を高く評価しない。アリストテレスに由来する徳の名称を受け継ぎつつも、その内容を非自律的で政治的資質に欠ける大衆でも持ちえる、功利的感情や寛容の気質へと転換している。そしてスピノザの議論に特徴的なことは、この能動感情の典型的形態が「敬虔」と「宗教心」に求められることである。

スピノザにとっては、敬虔や宗教心とは、神を愛する自分と神との関係性の意識であるとともに、それを介して自己と他者(物)との関係を適切に設定し、みずからの欲望を制御していく社会意識のことであり、共同体形成のための意識原理の基礎と考えられていた。そして、スピノザにとって敬虔こそが、国家形成における能動感情として重要な役割を果たしている。そもそも理性や善の認識は感情に対して無力だが、能動感情は感情であるが故に、感情・欲望に対して有効な療法として機能しえる。それゆえ、能動感情としての宗教心は、大衆に開かれた倫理であり、あるいは無意識的にすでに経験している卑近な倫理でもある。

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