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2012年8月 8日 (水)

柴田寿子「スピノザの政治思想 ~デモクラシーのもう一つの可能性」(15)

2.カルヴィニズムにおける抵抗権論と統治契約説

カルヴァンによれば、国家とは人間の霊魂を救済するための外的手段の一つとして、神が教会と並列して建てた制度であり、教会が「キリスト教の霊的王国」の芽生えであるのに対して、国家はマリストが再来するまでのあいだ一時的に、神の命を受けた為政者を介して「市民的秩序」が維持される制度である。それゆえ、国家権力は人民によって下から形成されたものではなく、神から下降してくるものであり、支配者も神によって立てられたものであるから「すべてのたましいは、上にある権力に従うべき」なのである。そして、旧約聖書に記されたヘブライ国家こそ、このようにして樹立された国家の典型であり証明であるとされる。

アルトゥジウスは、こうしたカルヴァンの教説と聖書解釈では不明瞭だった点を独自の見解で補強展開した。アルトゥジウスによれば、まずヘブライ人たちはモーセの十戒に示された神の言葉を遵守することを神に遵守することを神に約束し、その代わり神はヘブライ人を「選ばれた民」とし、恩恵を施すことを約束した。神の言葉は「神聖な自然法」とも言い換えられ、神とヘブライ人との間で結ばれた相互的な約束が「契約」である。しかし原罪を背負っている弱い人間たちが契約を守るためには、国家という権力を有する市民的秩序が必要であり、それゆえ神は人々の「共同体」全体に国家権力を与えた。そしてその国家権力は、共同体の成員である為政者と臣民とが神を証人として結んだ、統治に関する契約にもとづいて運用された。この統治契約の根底には、神が人々に与えた自然法という規範があり、為政者は権力を自然法と統治契約とのに従って正しく運用し、臣民の真の信仰と福祉を保証するような統治を行い、他方臣民も統治契約を守って支配者に服従し、自然法という社会規範と真の信仰を遵守しなければならなかった。以上のようなアルトゥジウスの契約解釈の、第一の重要なポイントは、神が国家権力を与えたのはモーセをはじめとする為政者に対してではなく、共同体としての人民全体に対してであるという点である。さらにカルヴァンにおいては、国家成立が契約に基づくか否かは必ずしも明確ではなかったが、アルトゥジウスは、モーセの国家が成立する際に神と人民との間に契約が結ばれた点を明確化した。それによってカルヴァンが神→支配者→臣民と一方的に下降する国家権力論を展開していたのに対し、アルトゥジウスの主権論においては権力の一方的化工は不可能となり、契約によって下から権力を構成する論理が切り開かれた。その上で、アルトゥジウスは、神と人民との間の契約の重要な一部として、人民内部においても神を前にしてモーセをはじめとした為政者と臣民の間に契約が結ばれたことを主張し、支配者は神の自然法に沿って統治を行い、人民はそうした支配者に服従するという支配服従契約が成立することになる。このような二重の契約構造にもとづいてアルトゥジウスは、為政者が統治契約を遵守しているか否か、自然法を遵守しているか否か、良き統治を行っているか否かについて、臣民が神に問いかけることを正当化した。つまり、共同体全体や臣民の利益を著しく侵害して神との契約を踏みにじった暴君を、より下位の為政者が実力で放伐することは、神に対する義務として正当である、という抵抗論が基礎づけられた。このような抵抗権論が、王権神授説を掲げカトリック政策を強硬するスペイン王フェリペ二世に反旗を翻すうえで、格好の理論的武器となった。

3.スピノザにおけるモーセ国家の契約解釈

アルトゥジウスの理論は、支配者と人民との間に契約理論を挿入することによって、一方では支配者のもつ国家主権の正当性を臣民が問うことを可能にしたが、同時に他方では、支配者が臣民の服従のあり方を神の名のもとに問うことも可能にする。しかしアルトゥジウスによれば、国家における最高権力者は、ヘブライ人の国家におけるモーセのように、世俗の支配を司る最高権力とともに宗教的事柄の監視・擁護・保護・指導をおこなう教会行政を司る最高権力をも掌握している。それゆえアルトゥジウスの政教一致の見取り図を、オラニエ公の政治権力とカルヴィニストの宗教権力との癒着を正当化し、さらに神の法の遵守を政治的にばかりか宗教的にも臣民に強要するために利用することも可能となった。

これに対して、スピノザは出エジプトを果たしたヘブライ人は既存の国家体制や法律による制限をすべて免れ、自らの自然権をどのように処すべきかを全く自由に考え行動し得る状態にあったから、かれらは「自然状態」にあったと解釈している。スピノザの聖書解釈のポイントは、上述のように神との契約以前にすでに各人の自然権が存在する自然状態があり、国家権力の源泉は神ではなく各人の自然権という力であるとされる点である。しかも、神との契約は、神から一方的に与えられた恩寵ではなく、各人が自らの経験と利害判断と決意に基づいて主体的に選択した行為であると解されている。さらに特筆すべきことは、神が何か恩恵を与える代わりに、各人が倫理的規範としての自然法を守り一定の義務を果たすといった倫理的関係は、契約において約束されていないということだ。スピノザによれば、神と人と契約によって新しく生じるのは、各人がもつ個体的力、つまり各人の「自然権」が社会的に結合されて形成された最強の統一的力(=国家権力)のみである。ここでの神は人民に国家権力を与える者ではなく、人々が自ら持っている自然権を共同的に運用する社会的方式を樹立する際の普遍的な媒介となり、理念的な導きの役割を果たすものに過ぎない。さらにスピノザは、神と人民とが仲介者としての支配者なしに直接契約を結ぶ点が強調される。こうしてスピノザは、権力が神から下降してくることを否定し、さらに支配者と人民の契約によって国家権力が成立するという説をも排斥する。しかも国家権力が成立する際の人々の社会的結合の方式は、水平的な契約によるデモクラティックな様式をとっており、統治する側としての主権者とされる側の臣民という、支配服従関係が全く設定されていない。契約によって各人は、自分の恣意によってのみ自然権を行使する自然状態から、自分もその一部である社会全体の意志によって自然権をコントロールする国家状態に移行し、各人は盲目的自由(=事実上の不自由)を捨て一定の社会的秩序の下で自律的自由を獲得し、各人が単独であった時よりも自然権の裁量範囲は広がり行動能力は増大される。

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