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2012年8月28日 (火)

大津真作「倫理の大転換 ~スピノザ思想を梃子として」(1)

序章 スピノザの奇妙さ

スピノザの生涯とその倫理学・哲学における業績は、非常に奇妙なものであり、例外的で、風変わりなものと言える。例えば、彼の倫理学には、排除すべき悪人も、悪行もなく、推奨すべき人も、義人も、守るべき道徳律もないのである。それでは、現実の善悪は何であるかというと、それは、一定の期間持続する、ある方の人間社会の法律に照らして決定されているもので、要するに、人間が決めた限界つきの価値判断に過ぎない、というのである。時代が変われば、新たな犯罪が生まれたり、犯罪であったものが犯罪でなくなったりする。だから、根っからの犯罪者、本性からの善人、永遠不滅の罪など存在しない。存在するのは、生きるために最大限努力している存在物の必然的行為だけだ。その努力の一環が人間によって、善行と呼ばれたり、悪行と称せられたりしているにすぎない。

犯罪や刑罰などは、人間が作り出した概念であるから、天然=自然には、犯罪も刑罰も存在しない。天然=自然では、力の法則が貫徹されるから、強いものが弱いものに勝つ。「犯罪」を「作り上げる」仕事を担っているのが警察であり、そして、刑罰も人間が考え出したものである。裁判官が罪を認定した場合には、被告は報復を受ける。刑罰は神が下すのではない。だから間違いもあるし、不釣り合いな量刑もある。そうすると、「本当のこと」は、人間にはわからないのではないか?というよりはけしろ、「本当のこと」も、真理とか言われていることも、人間がつくったものではないか?それは作り話とどう違うのか?

犯罪も、刑罰も、有徳も、不正義も、嘘も、まことも、みな人間の頭で考えられたもので、現実の存在物ではない。現実はこんなレッテルを貼って往来を闊歩しているわけではない。人間が現実に向かって、レッテルを用意し、それをぺたぺたと現実に貼り付けているだけなのだ。

しかし、「本当の」真理は存在する、とスピノザは言う。

 

はじめから奇妙さ

彼が初めて神と人間について考察した『神、人間、人間の幸福に関する短論文』のなかに、すでに、凝縮して現われている。スピノザは、こう書いている。「すべてのことが必然である。自然の中には、善も悪もない」。そのことから、人間が考えている「全と悪は頭が考え出した」相対的観念であり、「実在するものではない」という結論が出てくる。例えば「ある人間が」悪いというのは、より善い人間と比較してのみ、言えることである。したがってあるものが善いと言うとするとなら、そのことは、この種の物事についての、われわれが有する一般的概念とその物事が合致していることを意味しているにすぎない」。絶対的な価値としての善なるものも存在しないし、絶対的な価値としての悪なるものも存在しない。現実にあるのは、我々が考えている基準に即して、より善いか、より悪いかである。ここのところの区別を峻厳にしないために、人間社会にはとんでもない偏見がはびこり、それが現実にとんでもない結果を齎していると、若きスピノザは考えていた。

偏見の第一は、既成の宗教が推奨し、既成の信仰が持っている神観である。一般の人々だけでなく、神学者や聖職者は、神を人間的イメージで捉えている。だから、この世のなかに悪がはびこる原因を神の責任に帰している。しかし、スピノザの内在主義的神観では、神は、万物をその「無限に完全な属性」のもとで包摂している「存在」に他ならない。言い換えると、「自然のすべてのことが神に帰せられる」から、万物は、そのままで、本質的に完全であるということである。そもそもの善悪がないというのは、この意味においてである。思考と現実の区別は、現実の変革に役立つ。なぜなら、善、悪、罪などは、存在物に密着し、存在物と本質を同じくするものではないことになると、そうした事態は、いわば事物の見え姿ととなり、修正可能となるからだ。偏見の第二は、この世の中に無駄なものが存在し、本質的に価値のないものが存在すると考えてしまうことである。その裏返しに、この世の中には有益なものが存在し、本質的に価値ある物が存在すると考えてしまうことである。現代でも「価値観」と言われる思考は、この罠に陥り易い。第三に、神は、人間の賞罰とは無縁であり、無関係であるということである。したがって、預言も、神による裁きも必要ない。だから、人間の法律は破ることができても、神の法律は侵すべからざるもので、そもそも人間には、それを侵犯する能力も力もないから、神がいちいちその権限を行使することなど、はじめから考えられないのである。神は、人間のやっていることに一切関与しない。従って神を信仰することは、別の意味を持ってくることになる。スピノザは、神信仰に七つの効用を挙げている。それらはすべて、市民社会の倫理にかかわる事項である。

(1)神の法則に従わなければ、「われわれが独自になしうることなど皆無に近い」。神即自然の法則にしたがったときにのみ、人間は偉業を成し遂げることができる。

(2)偉業を成し遂げても、「われわれが成すすべてのことが神に帰される」から、神信仰は、人間を「傲慢にならせない」ように仕向けている。

(3)すべての人間存在が完全であることから、われわれのあいだには「隣人愛」が植えつけられる。他人を助けて、他人が「よりよい状態で暮らせるように」することを望む気持ちに人間をならせる。

(4)裁判官のえこひいきがなくなり、人間を「援助し、改善させるために」賞罰や有罪判決がくだることになる。

(5)「悲しみ、絶望、嫉妬、驚愕、その他の悪感情からわれわれを開放する」。

(6)神に対する「恐れをなくさせる」。神は最高善であり、われわれの存在を支える実体であるからだ。

(7)一切は「神に帰す」わけだから、「われわれの永遠の安寧と福祉は神への真の奉仕にある」。それゆえ、われわれは、神を真に崇敬するようになる。

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